四章 福寿の花

12/16
前へ
/150ページ
次へ
 こうして鴎花を陥れる仕掛け時を狙っていた雪加にとって、昨日の夕方はまさに好機だった。鴎花が出かけている間に、イスカの方が先に浮島へやってきたからだ。  イスカを迎え入れた雪加は、一旦表に出ると山羊小屋の中に植木鉢を置き、自ら茶も淹れた。  残念ながら七輪の使い方がよく分からなくて湯を沸騰させることはできなかったものの、大量の茶葉を使ったことで毒入りであるかのように見せかけることはできた。  そして雪加の仕掛けに引っ掛かり、福寿草が入っていると思い込みすぎた鴎花は、茶葉を食べて過呼吸を起こし、それでも毒ではないからすぐに回復したのである。  浮き島に幽閉されようと彼女が余裕たっぷりだったのは、毒を盛っていない自分が罰っされることはないと知っていたからだ。  もちろん誤認で殺される恐れはあっただろうが、いざとなれば鴎花がどうにかしてくれるはずという甘えも雪加にはあったのかもしれない。  鴎花を憎みつつも、その忠誠心を雪加はよく理解している。  そんな奇妙な信頼を匂わせることを、雪加は言った。 「本音を言えばな、そなたのことだから妾が毒を盛ったとは訴えられずに、自分がやったと罪を被るのではないかと思っていたのじゃ。やってもいない罪を忠義面で認め、あの僭王から憎まれれば良いと期待しておった」 「なんと……」  いつになく気色ばむ鴎花を見て、雪加は甲高い笑い声を上げた。 「ほほほ。それがそなたにとって一番堪えるはずじゃからな。夷狄の王にその身を嬲られることに喜びを覚えておるそなたなら、あの男の寵を失うのが一番辛かろうて」 「……姫様、いくらご主君であっても、やっていいことと悪いことがあります」  鴎花は拳を小刻みに震えさせながら低い声で言った。  昂ぶる感情をもはや堪えきれないことを、強く自覚する。  この痘痕だらけの姿を嘲笑われることには慣れているし、雪加が自分を塵芥のように扱うことも諦めている。崔皇后は人の価値を美醜で決める人で、宮殿の主がそういう考えである以上、鴎花の周りの人は、母以外、皆が醜い痘痕娘を蔑んだ。そんな中で育った雪加が、鴎花に価値を感じるわけがない。  だがイスカは駄目だ。  イスカは鴎花にとって光なのである。彼を奪われる事は、この世から太陽を失うのと同じこと。  この人はそんな心の支えすら、面白半分に奪おうとしたのか。 「私は姫様を唯一無二の主君と仰いでこれまでお仕えして参りました。母からそれこそが私の生きる道であると教えられましたから」 「君、君足らざるとも忠義を尽くすべき、と?」  雪加は自虐的な笑みを浮かべて、鴎花の言葉を遮った。 「どうせそなたも計里と同じ。妾のことなど見下し、主君として相応しくないと内心思っているのであろう。じゃが、主君を値踏みするとは臣下として無礼千万。そのような不心得者を妾が(ちゅう)して何が悪い」  そのいじけた物言いから、雪加は計里に拒絶されたことをいまだ根に持っているのだ、と推測できた。  幼い頃から実母である崔皇后に溺愛され、家臣達が当然のように傅いてくれる育ち方をした雪加は、主君には家臣を惹きつけるだけの力量を示す義務があることを理解できていないのだ。  だがそんな彼女に同情する気にはなれなかった。  鴎花はこれでも精一杯、心を込めて仕えてきた。それに応えなかったのは雪加の方だ。 「……翡翠姫は私です」  か細く震える声が、広くもない部屋の中に響くのを鴎花は感じた。これまでの二人の関係を根底からひっくり返すことを、自分は今言っている。 「陛下と心を通わせているのは私であり、姫様ではありませぬ。命が惜しければ引っ込んでおいてくださいませ」 「ほう……とうとう本性を見せたな、この女狐め」  強張った顔をしている鴎花とは対照的に、雪加はまさに翡翠姫らしい、余裕に満ち溢れた微笑みを浮かべていた。  そして鴎花の顎に指を掛け、ぐいと顔を近づける。  間近に迫った彼女の漆黒の瞳が、鴎花の頬に浮かぶ痘痕の一つ一つを追いかけるのが分かった。 「!!」 「妾に成り代わるうちに、本物の翡翠姫になりたくなったのであろう。かように薄汚い顔を晒しておきながら、図々しいことを考えるものよな」  鴎花は雪加の手を乱暴に払い除け、顔を背けた。  もうたくさんだ。  自分が不忠者の烙印を押されることも、母を悲しませることも辛かったが、こんな酷い人を主君と仰ぐことなんてできようものか。  鴎花は決別の気持ちを込めて立ち上がった。  しかしそれでもなお雪加を直視できなかったので、彼女に背を向け早口で吐き捨てるように言う。 「どうやら私達は一緒にいてはいけないようですね。私はこれからも翡翠姫として振舞ってまいります。姫様はこの浮き島で、心静かにお過ごしくださいませ」  鴎花の宣言に、雪加は何も言わない。  気になってちらとだけ振り返れば、彼女が薄ら笑いを浮かべている様子が目に映った。その心の内までは見えない。いや、見たくもない。 「……失礼いたします」  鴎花は口を真一文字にぐいと結ぶと、以降は振り返ることもなく、駆けるようにして浮き島を出ていったのだった。
/150ページ

最初のコメントを投稿しよう!

82人が本棚に入れています
本棚に追加