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四.
鴎花は浮き島に戻ってこなかった。
今後は昨夜手当をしてもらった屋敷で暮らすことになったそうだ。
それはかつて燕宗の妃の一人が下賜されていた屋敷で、天井に描かれた龍の絵から、香龍宮と呼ばれている。この宮殿の元の主は、龍の神である天帝への畏敬の念が強い女だったらしい。
伽藍宮に比べれば豆粒のように小さいものの、戸板を貼り付けただけのこの浮き島の家に比べれば、段違いの快適さであろう。
そして雪加に代わって、これまで厨房で鴎花の手伝いをしていた下女が、侍女として配されることになったそうだ。
まぁ、そんなことはどうでもいい。
雪加は今、浮き島の家の二階の窓から、一人で月を見上げている。
毒は見つからなかったものの、日頃のイスカへの無礼な態度を咎められ、雪加はこの島に無期限幽閉と決まった。
地下牢へ入れるには可哀想だが、華人としての自尊心が高過ぎる彼女は、自由にさせておくと確かに何をするか分からない。だから彼女自身のためにも閉じ込めておいてくれ、と鴎花がイスカに働きかけたらしい。
しかしただでさえ人手不足の鴉威の兵士を、侍女なんかの監視に割くわけもいかない。だから浮き島への橋を取り壊すことで逃亡を防ぎ、食事だけを一日一回、対岸から小舟で運んでくれることになった。
鴎花の指示で荷物を回収に来た者達は、一階に敷いていた絨毯も取り外してしまったから、この島にはいまや数枚の木綿の衣と寝具以外、何も残っていない。あるのは雪加の身一つだけだ。
(今宵は佳き月じゃのぉ)
しかし雪加は月の美しさを無邪気に楽しんでいた。
虚空に浮かぶ眉月は、月見をするには頼りない薄さだったが、今の雪加にはその欠け具合が妙に心地良かった。
(一人で十分じゃ。あんな不忠者と一緒にいるより、よほど良い)
周囲にとうとう誰もいなくなった寂しさよりも、清々しさの方を今は強く感じる。いや、投げやりな気持ちになっているだけだろうか。
年始の変からもう半年以上が経つのに、誰も助けに来ないどころか、雪加の境遇は悪くなるばかりだ。
このまま誰にも気付かれぬまま儚く消えてしまうのかもしれないが、それでも月は綺麗なのだから、これでいいかとも思える。
そんな独りきりの月見をしているところへ、誰かがやって来た。
階下での物音に気付き、雪加が手探りで灯りをつけていると、褐色の肌の男が梯子を登って顔を出したのだ。
「!!」
「いやぁ、暗闇を明かり無しで泳ぐのはなかなか怖いもんだな。しかもここの池は目に見えなくても水の流れがあるから、思っていた以上に流されて、余分に泳ぐ羽目になったぜ」
雪加に断ることなく二階まで上がってきたアビは、なんと全裸だった。黒衣は革の帯で頭の上に括り付けている。
どうやら池の中を泳いでここまでやってきたらしい。
アビはイスカの弟なのだから、何をしても許されるはず。幽閉された侍女に会うだけなのだから、堂々と申し出て小舟を使えばよかったのに。夏の始めとはいえ、なんという無茶をしたのか。
闖入者に唖然とする雪加に向かって、彼は拭くものを持って来いと命令してきた。見れば彼の体からは水の粒がぼとぼと垂れていて、床を濡らしている。
「そんなものはない」
「じゃあお前の着物でいい」
アビは雪加に襲いかかると、身につけていた衣を強引に剥ぎ取り、手ぬぐい代わりにしてしまった。
やることが無茶苦茶である。
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