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「鴉夷の者は、真に翡翠姫を妻にするつもりなのでしょうか」
鴎花は柱の傷をなぞりながらぼそりと呟いた。
漆塗りの綺麗な柱を汚すのは申し訳なかったのだが、ここに来てから何日経ったか分かるように、食べ終わった羊肉の骨を使って楊枝を作り上げ、日が昇ると同時に一本ずつ傷を刻んでいるのだ。
今やその数は八十を超えた。
蛮族達が翡翠姫を妻にしたいのなら、いつまでも閉じ込めておくのはおかしい。
「ふん。蛮族どもはそなたの痘痕を見てしまっておるのじゃ。本気で娶るわけが無かろう」
雪加は寝言は寝て言えとばかりに、肩をそびやかした。
その横顔は襲撃の夜から続く激しい境遇の変化により、痩せてやつれて見えるが、それがかえって彼女の美しさを際立たせているように鴎花は感じた。
翡翠姫の名は伊達ではない。
今の雪加は湯浴みも、髪を梳くこともままならないが、それでもその名の通り、雪のように白い肌を持つ見目麗しい姫なのだ。
「そうですね」
自分の凸凹だらけの頬を指先でなぞりながら、鴎花は淡く微笑む。
これについては、鴎花も雪加の言うとおりだと思う。
疱瘡は伝染病で、罹ってしまうと高熱を発し、無数の出来物が全身に現れる。
死に至ることもある恐ろしい病気だが、熱の引いて命が助かった後にも出来物、痘痕だけが残ってしまうことが稀にあるのだ。
痘痕は一生治らない。
雪加の乳母で、鴎花の実母である秋沙はなんとかして娘の体から痘痕を消そうと、高価な薬湯や灸を様々に試してくれたが、効果は全く無いまま今に至る。
「翡翠姫が蛮族の妻にされ、その身を汚されたなどと世間に噂されれば、妾にとって一生の恥……これほど悔しいことが他にあろうか」
雪加の嘆きぶりを見ていると、すぐにも鵠国の軍勢が助けに来てくれ、翡翠姫としての生活に戻れると思い込んでいるように感じた。
(……果たして本当に?)
鴎花は肩にかけていた黒い外套の端っこを、指で弄りながら考える。
この外套を貸してくれた男は華人の男達より逞しい体躯と、鋭い目を持っていた。
瞳の色こそ鵥の羽と同じ美しさだったが、あれはまさに獰猛な猛禽類の目。
ここ何年も外敵に襲われることが無く、平和に慣れた鵠国の兵士では彼らに太刀打ちできないのではないかと、不安になってしまう。
いや、太刀打ちできなかったからこそ、後宮の奥深くまで侵入されてしまったのだ。
今、この扉の向こうがどんな状況なのかは分からないが、都を守る羽林軍は既に壊滅し、鵠国の長たる皇帝だって殺されている可能性があるわけで……。
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