四章 福寿の花

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 言いかけたのにアビは突然口をつぐみ、それから大きく舌打ちした。 「チッ。なんで俺の手の内を、わざわざお前に教えてやらなきゃいけねぇんだよ」 「知らぬわ。そなたが勝手に話し出したのであろう」  無駄に腹を立てられた雪加はふくれっ面でそっぽを向く。そんな雪加に向かって、アビは暗闇の中から手を伸ばしてきた。  雪加はもちろん抵抗したが、アビは無理矢理に抱きついてきて……いや、違う。 「うぅ、寒ぃ」  アビは雪加の被っていた寝具に潜り込んできただけだった。  どうやら水で濡れて身体が冷えきってしまい、我慢できなくなったらしい。  人肌の温もりを求めて抱きついてくる様は、母親に甘える幼子のようでもあり、雪加は不覚にも胸がざわつくような感情を抱いてしまったが、それはありえない。若さゆえに引き締まった瑞々しい肢体が冷たくなっていて、そんな彼の肌をほんの少し心地よく感じてしまっただけのことだ。  この男が無邪気な幼子でないことは、その直後に脚をキツく絡め、更には雪加の胸を無遠慮にも鷲摑みにしてきたところからも明らかである。  嫌がる雪加の頭を顎を使って乱暴に押さえつけたアビは、その耳元へ囁くように言った。 「あぁ、そうだ、代わりにいいことを教えてやるよ。ついさっき早馬で知らせがあったんだ。郭公(グォゴン)が鵠国皇帝を名乗り、兵を挙げたそうだぜ」  「え?!」 「郭公は確か、お前の実の兄だよな? 皇后の実子でありながら素行不良だとかで、南方の果ての郭の地に配されてたらしいじゃねぇか。そのせいで、年始の変のときには木京にいなかった」  アビの言う通りである。  地方に配されていた他の皇族らは新年の宴に招かれて都へ集まっていたから、一網打尽に殺されてしまったが、郭公だけは難を逃れた。  父に疎まれていることで臍を曲げた彼が、病を理由に上京してこなかったからだ。 「これから郭公の元には鵠国の遺臣達が続々と集まっていくはずだ。良かったな。兄貴が長河(チャンファ)を越えてこの木京(ムージン)まで攻め上ってきたら、蛮族の慰みものにされた惨めな皇女として、お前も歓迎してもらえるだろうよ」  華語(ファーユィ)が堪能なこの男は、嫌がらせも上手に言う。雪加の心に芽生えたばかりの期待感をも、無下に刈り取っていくのだ。 「お前も可哀想にな。親に置き去りにされて、俺なんかに身体を汚されて、忠実なはずの乳姉妹にすら見捨てられて。お前はもう、このだだっ広い中原に身の置き所も無いんだ」  アビはくっくっく、と喉の奥で詰らせた笑い声を上げると、いまやすっかり乱れてしまった雪加の黒髪を一房、手に取った。艶やかな長い黒髪を弄ぶように、己の指に巻き付ける。 「なぁ、そろそろ死にたくなってきただろ? 自害用の短剣くらいなら恵んでやってもいいぞ」 「誰が自害など」  雪加は鼻で笑った。  虚勢でもなんでもない。  雪加は死ぬつもりなんてまるで無いのだ。 「妾は翡翠姫じゃ。光り輝く中原の宝玉。それは誰が何をしようと、揺らぐものではないわ」  その圧倒的な自負で、心が支えられている。  今まさに蛮族に体を蹂躙されている最中だが、それでも雪加は己が惨めだとは思わない。  雪加は誰よりも美しい高貴な姫君。粗野な蛮族ごときがその価値を定めようなど、片腹痛い。  アビに正体を知られてしまったせいで堂々と名乗れるようになった雪加は、今まで以上に翡翠姫であることを強く感じていたのだ。 「……」  闇の中でアビの息遣いだけが、僅かに揺れた。  雪加の反応が予想外のものであり、目を見張っていたのだ。  それでも彼は一拍の間を置いてから「……へぇ」と嘲るような声を上げた。 「じゃあ今夜は、死にたくなるようにさせてやるよ」  言うなり、アビは雪加の胸の尖端を、指で円を描くようになぞった。  それと同時に、耳の裏にも舌を這わせる。  そんな不意打ちの刺激に堪え切れず、雪加の口元からは甘い吐息が漏れた。そう、鴎花がイスカに抱かれるたびに上げているような喘ぎ声だ。  途端にアビは勝ち誇ったように哄笑した。 「そうそう。お前には今からそういう恥ずかしい声をたっぷり上げさせてやる」 「くっ……」 「お前はさ、俺なんかに抱かれておきながら一晩の間に幾度も気を遣り、淫らに腰を振るんだ。その有様は遊び女さえ目を覆いたくなるような乱れっぷりで、口先では嫌だのなんだのと言っておきながら、体の方は俺を大歓迎。がっつり咥え込んで離そうとしない」  そういうの、いいだろ?、と雪加の耳たぶを甘噛みしながら一方的な未来予想図を告げたアビは、ここから動きがあからさまに優しくなった。  まるで恋しくてたまらないとでもいうように、雪加の身体を隅々まで丁寧に愛撫していくのだ。  しかしこれは明白な嫌がらせ。  翡翠姫の名を貶めようとする卑劣な行為であり、雪加は奥歯をぐいと噛み締めて、吐き出すはずの息を全て呑みこんだ。 「妾はそなたの思い通りにはならぬぞ」 「その強情、いつまでもつかな」  漆黒の闇の中で、二人は憎悪を煮えたぎらせた視線と互いの肢体を絡め合う。  いつしか地の果てに姿を消していた薄い月の行方も知らぬまま、アビと雪加の長い夜は更けていったのである。
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