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ニ.
暗闇の中で見る彼の大きな背中は、まるで氷の絶壁の如くだった。
抗いがたい不安故に、いっそ陛下の仰ることはよく分かりました、と理解したフリをしようかとも思ってしまったが、それはいけないと踏みとどまる……そんな葛藤を繰り返すうちに、夜が明けてしまった。
結局、イスカは翌朝になっても仏頂面のままだった。彼はそして、鴎花のよそった粥を食べきると「今から戦へ行く。しばらく戻らない」とだけ言い残し、香龍宮を出ていってしまったのだ。
(……なんと、戦へ?)
確かに郭宗が兵を挙げたとは昨夜聞かされたが、そのためにイスカ自らが出兵するとまでは知らなくて、鴎花は大いに驚くことになった。
前に東鷲郡での反乱を鎮圧した時もそうだったが、彼は己の行動を事前に教えてくれない。
やはり鵠国の皇女を相手に、余計な情報は与えまいと警戒しているのだろう。
その用心深さは理解できるし、多くの者の命を預かる王として尊敬できる点でもある。
しかしそういう緊張感を持たなくて良い、という意味では同じ鴉威の民である父の妾達は、妻として心安らぐ存在になるのかもしれない。
こんな日はそんな卑屈なことを、強く思ってしまう。
「陛下と喧嘩でもなさったのですか?」
イスカが出陣した後、ため息ばかりをついていたら、小寿にはすぐに見抜かれてしまった。
彼女は鴎花のためにお茶を淹れてくれた。
彼女の淹れるお茶は優雅さに欠けるが、立ち上ってくる湯気は心を和ませてくれる。
絹の面布を外した鴎花は、鼻腔いっぱいに芳香を感じ、小寿はそんな鴎花を温かい眼差しで見守ってくれる。
侍女というよりは世話好きな近所のおばさん的立ち位置にいる彼女に心を許している鴎花は、この際なので少しだけ愚痴らせてもらうことにした。
「私の当たり前と陛下の当たり前があまりに違っていたので、つい……」
この際、彼の言葉がキツかった点については気にしないでおこうと思っている。
華語が母国語ではない彼にとって、咄嗟に口にする言葉にまで柔らかい表現を求めるのは酷であろう。
いや、そう言い訳して聞かなかったフリをしているだけか。
彼にとっての鴎花の価値は翡翠姫であることが大前提であり、そこが崩れてしまうと何も意味がない。どれだけ心を通わせようと体を重ねようと、何の意味もない。それをあの発言で思い知らされてしまった、なんてことは考えたくもないからだ。
彼が父の妻達を娶ると言い出しただけでも前途多難なのに、こんなところで悶々としていたくない、という気持ちもある。
再び深い吐息を漏らす鴎花の足元に、いつの間にやら杜宇が潜り込んでいた。この悪戯坊主はかくれんぼでもしているつもりなのだろう。机の下から顔をのぞかせ、鴎花と目があった瞬間、嬉しそうにニカッと笑った。
毛を両脇だけ残して剃りこぼった頭部がなんとも可愛らしい。鴎花が思わず微笑み返すと満足したのか、再び机の下へ頭を引っ込め何処かへ行ってしまった。
入れ替わるように、その母が鴎花の前に座る。
侍女が主人の前で座るのは不敬であるが、鴎花は彼女を思いやり、むしろ積極的に座って良いと指示してある。それに座ってもらった方が、今日のような日は話をしやすい。
「それ、分かりますわぁ。私も嫁いだその日の夜から亭主と喧嘩しましたもの。肉団子に山椒が入っていないのはおかしいって言いだすから」
「そんなことで喧嘩を?!」
あまりのくだらなさに鴎花が思わず吹き出してしまうと、小寿はその大きな体を揺すって笑い出した。
「彼の故郷での伝承でして。肉食を許してくれない仙人様の目をくらますために、山椒は肉料理に欠かせない品なんだそうですよ」
「そんな理由……?」
「ええ。食べ物のことは今でも一番揉めますね。そもそもうちの亭主は河南の田舎の出身なので、木京育ちの私とは味覚が合わないんです」
「小寿は料理上手なのに、なんと贅沢な……」
「それに魚や鶏を殺す時には刃にきちんと祈りを捧げたのかとか、どうでもいいことをやたらと気にしますし。南の人は何をするにも迷信深くて面倒なんですよ。まぁそれでもうちの場合は単身上京してきた亭主だから、口うるさいお姑さんも小姑もいなくて、結局私の好き放題にやらせてもらってるんですけど」
それゆえに結論を言ってしまえば、ここの夫婦仲が良好なことを鴎花は知っている。
小寿はことあるごとに夫の話をしたがるし、働く意欲を失った夫を自らの扶持で養うくらい、彼のことを大事にしているのだ。
「夫婦ってのは常識と常識のぶつかりあいなんだと私は思いますよ。何が正しいかは一旦横へ置いておき、どこで折り合いをつけるかを二人で決めながら一歩ずつ進むしかないんでしょうね」
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