五章 常識の壁

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「そうかもしれないわね……でも、出陣の前くらい、笑顔で送り出して差し上げれば良かったなぁと、反省もしていて……」  イスカは最後の夜を過ごすため、出陣前に時間を割いて、鴎花の元に来てくれていたのだ。  彼はもしかしたら、鴎花に余計な情報を掴ませないため、というよりは、心配をかけまいとして戦の話を控えていてくれたのかもしれない。  その辺りの真実は分からない。  分からないから早く会いたい。会って話をしたいと、出陣していった当日なのにもう考えてしまう。 「今日からいなくなるなんて、教えてもらっていなかったのだから、仕方がないですよ。女はいつの時代も、(まつりごと)の蚊帳の外なんですから」  小寿の言うとおりだ。  鴎花が表宮での状況を積極的に聞き出せないのは、華人であることだけが理由ではなく、女であることも大きい。  女が政に参加すると、国が乱れる。  これはこれまでの長い歴史が語っていることだ。  鵠国の前に中原を治めていた隼国でも、それよりもっと古い国でも、国が滅びる時には決まって妃が政に口出しし、その父親や兄などの外戚が国を私物化した。  その反省を生かして、鵠国では皇后を輩出するのは、隼国の皇族の末裔である崔氏に限定し、代わりに崔氏の者達には一切の役職を務めさせないことになっている。  鴎花もそのあたりの話は雪加の側にいたおかげで何度も教えられてきたから、今もイスカの政にはなるべく関わらないように心がけている。  こんな囚われの王妃でも何かの役に立つかもしれぬ、今のうちに縁を通じておこうと、何かの折に触れては貢物を持ってくる華人もいるにはいるのだが、鴎花は全て断っている。  華人と通じて反逆しようとしているとイスカに疑われるのも嫌だし、それに巻き込まれるのも御免だ。もちろん醜い痘痕が人目に触れるのも嬉しくない。 「まぁまぁ、夫婦喧嘩なんてよくあることですよ。陛下は十分、妃殿下を愛してくださっています。その証拠に他の女の影も無いじゃありませんか」 「陛下は無駄がお嫌いなので。他の女を置くのは金がもったいないと思っているだけです」  それは彼が常々言っていたことだ。  俺は後宮で無駄飯食いの女を何人も囲うつもりはないのだ、と。  極めて合理的で、無駄を嫌う人物だけに、後宮には女でなく鴉威の兵士達を住まわせているくらいだ。 「そうですかねえ。嫌いな女を毎日愛でることこそ、時間の無駄だと思いますよ。さぁ気分転換に山羊の散歩でも行って来てくださいませ。この暑さも午前中ならマシですし、あの子も早く行きたいと待っていますよ」  小寿の言葉に相槌を打つように、表の小屋から山羊の鳴き声が聞こえてきた。  浮島から山羊小屋も一緒に運んできてもらったので、仔山羊も今では香龍宮の住人になっている。成長の早い獣だけに体も一回り大きくなり、今ではもう草を食べるようになっていた。鴎花と一緒に散歩……と言う名の後宮の雑草処理に出かけるのを毎日楽しみにしてくれている。  こうして鴎花はピトを供に、山羊を連れて散歩にでかけたのだが、その途中で大きな荷物をいくつも運んでいる集団と遭遇してしまった。  手押し車に載せたり、二人がかりで抱えたり。彼らが運んでいるのは椅子や机、長持だけでなく、手桶や竹籠などの生活雑貨まで多様な品々だった。  彼らはどうやら、周囲の宮殿から手当たり次第に物品を持ち出しているようだった。運び入れる先は後宮でも三番目に大きな、杜鵑(ドゥジュン)宮という宮殿。  先頭に立って指揮をしているのは、褐色の肌をした女達だ。彼女らは年始の変以降に、鴉威の地から呼ばれてやってきた者達で、恐らくイスカの父の妾達を迎え入れる準備をしているのだろう。  彼女らに檄を飛ばされ、実際に運んでいるのは華人の下男なのだが、力仕事をしている華人達よりも、黒衣を纏った女達の方が赤い顔をして額から汗を流しているところを見ると、鴉威の民は本当に暑さが苦手らしい。 「……」  各宮殿の調度品は、全て燕宗(イェンゾン)の妃達のものであり、これは略奪にしか見えない行為だ。しかし今は鴉威の民が占拠しているのだし、名ばかりの王妃である鴎花には彼らを止める権限が無い。  こんな時には鵠国が滅んでしまったことを強く実感させられてしまう。 「……今日は別のところへ行きましょうか」  ピトにそう告げて微笑んだ鴎花が山羊の首を繋ぐ赤い紐を引っ張った時だった。  普段は固く閉ざされている、後宮から直接表へ出るための唯一の鉄門が開くのが、石畳の小径の先からちらと見えたのだ。
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