五章 常識の壁

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 普段の出入りは表宮と後宮に跨って作られた、鳳凰(フォファン)宮の渡り廊下を使っているので、重い鉄門がわざわざ開くのはイスカが兵士を出入りさせる時くらいだ。  顔を覆う醜い痘痕を気にして、人が多くいるところへ出ない鴎花は、今朝のイスカの出陣も香龍宮の前からしか見送らなかったので、この門が開く瞬間を見るのは生れて初めてになる。  思わず足を止めて見ていると、砂埃を上げながらゆっくりと開いた門の向こうからやってきたのは騎馬の行列だった。その数はざっと五十騎ばかり。統一されていない歩みは明らかに兵士らではない雰囲気だが、雑然と進んでくる彼らの先頭を切るのはアビだった。   「あ……」  アビの後ろにいるのが色とりどりの衣服を身に着けた女性達だと分かった瞬間、鴎花には彼女らの素性にぴんときてしまった。イスカの父の妾達だ。  そろそろやってくる頃合いだとは聞かされていたが、まさかそれが今日だったなんて。  一体どう振舞うべきかと決めかねている間に、無情にも騎馬の一群は鴎花に近づいてくる。そして先頭に立つアビは、場違いなほど朗らかな声で鴎花に呼びかけたのだ。 「丁度いいところで会うじゃないか、王妃様。紹介するさ。父の女房たちだ。端からアトリ、ニオ、ウカリ……」  笑顔のアビから矢継ぎ早に名前を告げられたが、とても覚えきれるものではない。とりあえず妾達が五人いるということだけ分かった。  アビの説明によると鴉威の地にはあともう少しソビの妻が残っているが、高齢のため動くことができないとのことだった。  女性らの年齢は二十代から五十代までと幅広いようだ。旅塵で皆一様にくたびれた顔をしていたし、夏の日差しのせいで暑そうにしていたが、女ながらにそれぞれが馬を乗りこなしているのは、さすが騎馬民族である。  中には五歳くらいの女の子を同乗させた者までいて、全員が華人と同じ衣を身に着けていた。鴉威の衣では暑くて、途中で着替えたのだろう。  ただ、大きな耳環を飾っているところが華人と違った。耳の下に垂れた大きな銀の輪は彼女らの立場の上下を表しているようで、アビのすぐ後ろにいた、七つも重そうな耳環をつけた年配の女性が、一番の風格を漂わせて馬上に座っている。  それにしても、人物紹介とはこんなにざっくばらんなものであっていいのだろうか。  何より、アビを始めとして彼女らが下馬しないのは無礼であろう。彼女らは顔を布で隠している鴎花のことを物珍しげに眺めているが、これでも鴎花は翡翠姫。しかも鵠国の第五皇女にして威国の王たるイスカの正妻、という立場なのだ。ここはアビがしっかり間を取り持つべきだろう。  しかし華人(ファーレン)を嫌う彼にとって翡翠姫など所詮敵国の捕虜でしかなく、礼儀を守る気にならないようだ。それどころか、一行の中で唯一黒衣を身にまとった彼は、鴎花のことをからかうような目で眺めている。 (……翡翠姫として、ここは怒るべきかしら?)  しかし鴎花は、その選択肢を取っていいのか悩んでしまった。  遠方からやってきて疲れている彼女らに、のっけから礼儀作法を説くのではあまりに心が狭い。  ましてや鴎花は今、山羊の仔と供を一人連れているだけなのだ。王妃らしさの欠片も無いこの状況で威厳を示すのは難しいように思う。  迷いの沼にはまってしまった鴎花に対し、アビはいやらしいほど唇の端を吊り上げてみせた。 「まぁまぁ、王妃様よ。みんな華人の習慣には慣れてないんだ。難しい礼儀作法については大目に見てくれよな。それにそっちも堅苦しいのよりざっくばらんな方が慣れてるだろ?」 「え?」 「じゃあまた後で」  彼は発言の真意を説明せぬまま、ひらひらと手を振って鴎花の前から去っていった。そして女達を杜鵑宮の方へと案内して行く。すると遠くにいても分かるほどの歓声が生垣の向こうから響いてきた。  鴉威の者達が彼女らを大喜びで出迎えているのだろう。  その心情は理解できるが、言葉が分からない人々が醸し出す気運の高まりというのは、異民族である鴎花にとっては恐怖でしかない。  鴎花は山羊の首につないだ紐を強く引くと、逃げるようにして香龍宮へと戻っていったのだった。 ***  アビはまた後で、などと調子のいいことを言っていたが、翌日になっても彼女らの方から挨拶に来ることは無かった。  山羊を連れて歩いているような女に対し、一目置く気分にはなれなかったのだろう。  鴎花も杜鵑宮へ出向くことはしなかった。
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