五章 常識の壁

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「杜鵑宮の女達を、八哥の妻として受け入れてくれ」  いつの間にかアビは顔に浮かべた笑いを引っ込め、真顔になっていた。  そして鴎花が反論を口にする前に「これが華人にとって気に入らない話なのは、よく分かってる」と先回りして言った。 「それでも八哥には必要なことなんだよ。鴉威はいくつもの部族から構成されていて、女達は各部族からの忠誠の証として差し出されている。八哥があいつらを娶ることは、そのまま部族間の結束力を高めることに繋がる」  お前も威国が空中分解したら困るだろ、と言われてしまえば、全くもってその通りとしか答えようがない。  一旦言葉を切ったアビは、改めて浮き島へ目を向けた。  華人と同じ色をした瞳が、一人で舞う雪加の姿を捉えると、すうっと細められる。  その視線に籠められた感情を鴎花は読みきれなかったが、はっきりしない、淡い色合いのものであることだけは確かなように思えた。 「あのお姫様が人質だ。今の八哥ならお前が反対すればうっかり聞き入れてしまうかもしれないけど、逆にお前さえ賛成すれば、このまま順当に女達を娶ることができる。だからお前には華人としての常識に目をつむってもらいたい」 「……私は姫を幽閉した不忠者ですのに。そのような脅しは効きませんよ」  こちらの弱みを握って言うことを聞かせようというその肚が不快で堪らず、鴎花は柄にもなく言い返していた。  大体これは鴎花の不快感だけが問題なのではない。イスカが華人達を統治するためにも、唯々諾々と引き下がってはいけない話なのだ。  しかしアビは鴎花の小さな抵抗を鼻で笑い飛ばした。 「いいや、お前は主君への忠誠心を捨てきれていない。だからこそあいつを殺めること無く、池の真ん中に閉じ込めているんだ。この状況なら、姫君の身を守るために、我が身を呈して翡翠姫を演じていたという言い訳がギリギリ通るからな。そうだろ?」 「……」  あまりに図星な指摘により口をつぐんでしまった鴎花に向かって、アビは更に追い打ちをかけるようなことを言った。 「何はともあれ、本物の翡翠姫は一人きりでも、偽物はいくらでも用意できるってことだけは忘れるなよ。お前が天帝の血を引く娘でなければ、いくら八哥だって態度を変える。今の暮らしを守りたけりゃ、おとなしくしておくのが身のためだ」  それだけ言うと、アビは軽やかな動きで連れていた芦毛の馬に跨った。 「じゃあな。よろしく頼んだぜ、賢い王妃様」  馬上の人となったアビは鴉威の言葉でフーイに二、三言声をかけると、それから後宮の外へと通じる通用口へと馬を進めて行ってしまった。  その間も雪加は島の中で無心に舞い続けている。  演目はどうやら天祈(ティェンチー)のよう。  天帝と盟約を結ぶための、皇女と皇后だけに伝承されている格式の高い伝統の舞いだ。  もっとも皇女と皇后だけに、と言いつつも雪加の乳姉妹である鴎花は彼女の側にいて一緒に練習したので、実は舞うことができた。  そしてよく知っている舞いだけに、その完成度の高さにも気付いていた。  ただ雪加の身のこなしが軽やかなだけではない。自分が美しいことに絶対の自信を持っている彼女は、舞うことで自らの美しさが増すと知っているから堂々と踊れるのだ。単に体の動きを覚えただけの鴎花とは、心構えからして違う。  それにしても美しすぎやしないだろうか、と鴎花は対岸から見つめながら感じてしまった。  彼女の舞いはこれまでも目にしたことがあるが、ここまで艶やかな……いや、妖艶な色香を漂わせたものであっただろうか?   (アビは何と言って舞うように仕向けたのかしら……)  そして彼が雪加の素性を知るに至った経緯とは?  接点がほとんどないはずの二人の関係性は気になるところだったが、答えの出ない謎については一旦考えることを止めておくことにした。  差し当たって全力で解決しなければいけないことが、今の鴎花にはある。  鴎花は香龍宮へ向かって早足で歩き始めた。 (……このままではいけない)  鴎花は自分の能天気さを呪いたい気持ちだった。  アビに素性を知られ、脅されたことで、ようやく目が覚めたとも言える。  イスカが向けてくれている愛情だけに甘えることはあまりに危険だった。それは彼と諍うだけで揺らいでしまう頼りにならないもの。  現実から逃げてはいけない。鴎花は偽物なのだ。しかも醜い痘痕面の。  そんな女が翡翠姫としてイスカの側にいるためには、もっと積極的に存在感を示さねばならなかった。鴎花でなければ困ると思わせるだけの功績を残さねば、偽物なんて簡単に首を挿げ替えられてしまう。  こうして鴎花は香龍宮へ戻ってくるや否や、小寿を呼び出した。  いつになく険しい顔をした女主人に驚いている彼女に向かって、鴎花は厳しい口調で話しかけた。 「白頭翁(バイトウウォン)を今すぐここへ。折り入っての話があります」  女は政治に関わるべきでないなんていうのは、本物のお姫様にだけ許された寝言だと鴎花は思う。  鴎花のような何も持たない女は、今の自分にできることを全力でこなさねばならないのだ。
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