81人が本棚に入れています
本棚に追加
/150ページ
「誰ぞ来た!」
不意に雪加が弾んだ声を上げた。
部屋の外、廊下を歩く足音が近づいてきたことに耳聡く気付いたのだ。
食事を持ってくる兵士ではないはずだ。朝餉を出されてから時間は経っていない。咄嗟に天窓を見上げて確認したものの、やはり日はまだ高かった。夕餉には早すぎる。
ここに閉じ込められて以来、誰かが訪ねてきたことは無かった。
この閉塞感を打ち破ってくれるのなら、どんな変化であろうと受け入れたい。できれば救出のためにやってきた鵠国の兵士であって欲しい、と雪加は期待したのだろうが、扉が開いて入ってきたのは、華人ではありえない、褐色の肌をした青年だった。
「おい。翡翠姫は今晩、八哥のところへ行け」
にこりともせずに華語を操って命じてきたこの男は、前開きになった黒色の上着を革の腰紐で締めていた。穿いている下衣も同じく黒。
唯一の色は袖口と襟元に施された白と赤の刺繍による文様で、襲われたあの夜に見たのと同じものだった。鴉夷ではどんな時でもこの着物を着るものらしい。
そして今日の彼は鎧だけでなく頭巾も外していたから、短く刈り込んだ頭部が顕わになっていた。
髪の色は鴎花たちと同じ黒色ながら、髪の毛は結って冠を被るのが当然である華人男性ではありえない短さだ。
丸顔で小柄なこの男は、まだ少年と言ってもいいくらいに幼く見えた。しかし口元は癇が強そうに歪んでいるし、目つきも剣呑だ。
彼の顔を鴎花は覚えていなかったが、鴉夷の民にしては流暢な華語の発音には聞き覚えがあった。
そうか。あの夜、雪加を担ぎ上げたアビとかいう男だ。
「何のために? 八哥というのは……?」
少しでも情報を得たくて鴎花が尋ねると、彼は白い歯を見せて笑った。
「八哥は俺達の族長だ。で、男が夜に女を呼び出す理由なんてのは一つに決まってるだろ?」
このアビという男、幼い雰囲気を滲ませているくせに、言うことだけは妙に大人ぶっている。
彼は持って来た竹籠と、水と手拭いが入った手桶を鴎花達の前に置いた。
籠の中には化粧品らしいものが乱雑に突っ込んである。どうやら族長の前に出るにあたって身支度を整えられるように、それらしいものを後宮からかき集めてきたらしい。
「日が落ちる頃には迎えに来る。その顔じゃ焼け石に水かもしれないが、せいぜい準備しておけよ」
よほど華語が得意なのか、綺麗な発音でご丁寧に嫌味まで言ってのけたアビは、鴎花の痘痕面を一瞥すると、再び扉の向こうへと去っていったのだった。
最初のコメントを投稿しよう!