五章 常識の壁

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三.  一万の兵を率いてイスカが陣を敷いているのは、木京からほど近い、長河(チャンファ)の北側の岸辺である。  夏の長河は流れが早く、水量も多い。  北進してくる郭宗(グォゾン)の軍勢はこの厄介な川を越えるため、一番川幅が狭く、そして川の真ん中に葦切(ウェイチェ)と呼ばれる小島が浮かんでいて渡りやすい、この地域を狙ったのである。  敵の首領は(エァ)鵬挙(ホンジュ)だ。彼は先日反乱を企てて殺された東鷲郡の長官の息子であり、父の仇を討たんと一万の兵を率いての先鋒を申し出たらしい。  郭宗自身が率いる本隊はまだ到着していないが、黒一色の旗と、白地に金色で鵠の字を染め抜いた旗が長河を挟んで睨み合ってから、はや五日になる。  挙兵の知らせを受け、いち早く兵を展開したイスカは葦切(ウェイチェ)を占領していた。  そして工兵たちに命じて葦切への浮橋を北岸側から五本もかけて移動手段を確保し、さらには北岸の本陣周辺にも投石器を多数配置して守りを固めた。しかしその次の手を打つことができずにいる。  イスカの主力である鴉威(ヤーウィ)の兵士たち七千騎は水辺での戦いに慣れていない上に、夏の暑さで弱っているのだ。  これを補うために華人(ファーレン)を中心にした羽林軍(ユーリンジュ)も三千騎、歩兵を一万人ばかり連れてきて船も用意させたが、戦意はいまいち低く、使い物にならない予感しかしない。  さらには占領した葦切は岩だらけの小島であり、馬を使えない。おかげでこの戦いでは鴉威の民の得意とする機動力を全く生かせそうにないのだ。 (……いっそ早く攻め込んできて欲しいんだが)  暑さで鴉威の兵士が弱り切るより前に短期決戦に持ち込みたい、というのがイスカの考えだ。だからこそ、自ら出陣してきた。敵はこの首を目指して群がってくると思ったのだ。  しかし南岸に集結した敵の船団は、地面に根を下ろしたかのように一向に動こうとしない。  それはなぜか。  斥候からの知らせでは、郭宗が兵をまとめることに手間取っているとか、功に逸る鄂将軍が取るものも取らずに北進して来てしまったから補給が追い付かずこれ以上兵を進めることができない、という話などもあったが、恐らく違う。  敵は対岸から見る限り川を渡るために十分な船を揃えているし、毎日のように訓練もして、血気盛んな咆哮を上げている。  恐らく鄂将軍は、暑さでこちらが弱るのを待っているのだ。  東鷲郡で父と故郷を失うという手ひどい敗戦を経験した彼は、その敗戦から敵の強さも、その影に潜む弱点も学んだ。  文治政策を国の根幹とし、武人を育てることをしてこなかった華人達も、戦を重ねるごとに成長していくのだと、彼を見ていると思い知らされる。 (……にしても、暑いな)  頭上でぎらぎらと輝く太陽を憎たらしげにイスカが見上げていると、アビが木京(ムージン)からやってきた。  大汗をかいて到着した黒い瞳の弟は、赤い顔をして黒衣の裾をバタバタと仰いでいた。イスカですらこのところは羊毛を織った黒衣を脱ぎ捨て、木綿の薄布を衣服にしているのに、鴉威の民であることにこだわるこの弟は、伝統的な黒衣を一向に止めようとしない。 「今戻った。いやぁ、女ってのは元気なもんだな。道中もぺちゃくちゃ喋り通しでさ。俺達だって鴉威から木京まで駆けてきたときには疲労困憊、へとへとだったけど、木京の手前まできたところで『誰が都へ一番乗りできるか競走しましょうよ』とか言い出した日にゃ、面倒見切れねぇと思ったよ」 「それで王妃は? 雪加(シュエジャ)の様子は?」  故郷から長旅をしてきた父の妻達のことより、後宮に残してきた王妃のことが気になって仕方ないイスカなのである。  兄が食い気味に問いかけてくるものだから、アビは瞬きを無駄に三度挟んで、その驚きを散らす羽目になった。 「様子って……そりゃ、八哥(パーグェ)に新しい女が増えようとそれが何ぞ。つんと澄ましてふんぞり返り、吾こそ翡翠姫なるぞ。蛮族どもめ、頭が高いわ……ってわけじゃなかったけどさ」  せっかくおどけてみせたのに兄が全く笑ってくれなかったので、アビは面食らった様子で途中から軌道修正し、自らの言葉を全否定した。 「なんだよ。女達のことで王妃にとやかく言われたか? それを気にしてるのか?」 「いや……気にしてるってほどじゃないんだが……」  言い淀む格好を見せたのは一瞬だけ。イスカはすぐさま奥にある自分の天幕へ弟を連れて行った。
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