五章 常識の壁

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 そして床に敷いた絨毯の上に胡坐をかいて座ると、向かい合って腰を下ろしたアビに、事の顛末を一から伝えた。  しかし聞き終わったアビは絶句というか、呆れ果てたというか……とにかく脱力しきってしまったのだった。 「……そんなどうでもいいことを、戦の最中に悩めるなんてな……余裕たっぷりすぎて恐れ入ったよ」 「べ、別に四六時中こんなことを考えてるわけじゃない! それと俺は悩んでない。あいつが俺達のやりようを頭ごなしに否定するから、腹を立てているだけだ」  顔を真っ赤に染めたイスカは、唾を飛ばす勢いで反論した。  イスカだって同じ話を他の華人が言ったのなら、ここまで怒らなかっただろう。  しかし王妃は自ら山羊を飼ったり、料理も鴉威のものを取り入れたり、イスカに寄り添おうと努力してくれていたのだ。  そんな女性だからこそ、この風習を強くはねつけられたことが悔しくて、つい傷つけるような言い方をしてしまった。  そして仲違いを解消しないまま都を離れてしまったが故に、彼女の様子が気になっているだけで、決して悩んでいるとかではないのだ……多分。 「大体、俺に好かれているから王妃になったっていうのは、順がおかしいだろう。俺はまずあいつを王妃にして、その後でまぁ、気に入るとか気に入らないとか、そういうことを考えるようになったんだ。別に最初から、その人となりを知っていたわけではなくてだな」 「その順番のところは、どうでもいいって」  イスカの並べる言い訳に価値を見出さなかったアビは、兄の主張を一刀両断した。  そして黒い頭巾を被った頭を掻きむしる。 「はぁ……八哥が女達を娶るかで悩むかもしれないとは思ったけど、まさかここまで面倒くさい方向へ行ってるとは予想しなかったぜ」  アビが本気で頭を抱えているようなので、イスカもバツが悪くなり、むくれた顔のままそっぽを向いた。  こんな私的なことは戦場で誰にも、もちろん副将のケラにも明かせなくて、アビが来たからようやく口にできただけなのに。何もそんなにけなさなくてもいいではないか。 「……まぁいいや。でもこれで八哥も目が覚めただろ。華人はみんな、俺達を野蛮だって決めつけて、卑下してくるものなんだよ」  兄がいじけてしまったのを見て、気持ちを立て直したアビは、とりなすようなことを口にした。  そして「俺の母だってそうだった」と、付け加える。 「明妃(ミンフェ)が?」  意外なことを耳にし、イスカは思わず問い返してしまった。  今から七年前に亡くなったアビの母、(ミン)昭君(シャオジュン)は、鴉威では明妃という名で呼ばれ、族長の正妻として敬われていた。  華語をイスカら鴉威の子供達に教えてくれたのも明妃で、だからイスカは生母ではない彼女にも懐いていたのだが、血の繋がった実の息子にはどうやら別の感想があるらしい。 「あぁ。夫の息子と夫婦になるなんて気色悪いっていつも言ってた。貞女二夫に(まみ)えずとかも言ってたかな。だから母は婚姻の決定を覆して欲しいって使者を鵠国にまで送ったらしい。でも返ってきたのは、嫁いだ以上地元の慣習に従えっていう祖国からの命令だった。それでも母は、鵠国に帰りたいって手紙をその後何度も出していた」  明妃がそこまでソビとの婚姻を嫌っていたとは、イスカも知らなかった。  彼女は先々代、つまりイスカの祖父とは倍以上歳が離れており、イスカの父であるソビと一緒になってからの方がアビという子宝にも恵まれて幸せに暮らしていたのだとばかり思っていたのだ。 「息子と言っても血は繋がってないじゃないか。そんなに嫌なものなのか?」 「そりゃあもう。自分で産んでおきながら、俺のことを気色悪いって言うくらい嫌らしい。馬から落ちたら、病気で俺が苦しんでいたら、華語を覚えられなかったら、あぁやっぱりこの子には天罰が下っているんだ、っていつも嘆いてた」 「……」 「俺はあの母の腹から産まれ落ちた瞬間から、ずっと罪人なんだよ」  軽蔑に満ち溢れた物言いを、アビは自分自身に向かって容赦なく突き刺してみせる。  そんな弟が痛々しくて、イスカは目が眩む気分だった。  嫁ぎ先の風習に馴染みきれない母の罪悪感を一身に背負う形で生まれてしまったこの異母弟は、これまでずっと自らを詰り、傷つけ続けてきたのだろうか。
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