五章 常識の壁

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「アビ……」   イスカは顔を曇らせ、弟の肩に手を置いた。  何と言って慰めればよいのか分からないが、そんなに思い詰めるな、とだけは伝えたい。これは風習の違いによって生じた歪みであり、決してアビ自身に責任のある話では無いのだから。  しかし兄が差し伸べた手を、アビはあっさりと振り払った。 「いいんだ。もう昔のことだし、八哥が気にすることじゃないよ」  割り切った口をきくものの、その表情を見ていれば、亡き母の呪縛が今もアビの心に影を落としていることは明らかだった。 「まぁ、あの痘痕の王妃様にしたら、それだけで女達を嫌がったんじゃないのかもしれないぜ」  自分のせいで暗くなってしまった空気を嫌ったのか、アビはことさら明るい声で話題を無理矢理に変えてきた。 「うん?」 「だから単純にさ、自分以外の女が八哥の側にってのが気に入らなかったんだろ」 「それは我儘だぞ」  身分ある男が大勢の妻を抱えるのは、何も己の欲を満たす為ばかりではない。  鴉威は部族の集まりで形成されているから、その部族ごとから女を出させることで、王との縁を深めている。  それに妻を多く抱えることは、良き跡継ぎを得るためにどうしても必要なことなのだ。  イスカの父も大勢の妻を得て、それぞれに子を産ませていた。  しかし長男と四男は部族間の戦いで戦死し、次男と五男と七男は成人する前に病死。残ったのは三男と六男と八男と九男で、このうち八男のイスカが武勇に優れていたため、各部族の長たちによる話し合いの結果イスカが族長となったが、九人男子が生まれても跡目を選ぶときには半分以下にまで減っていたわけである。  鴉威の繁栄を考えれば、王妃が自分以外の妻を持ってほしくないと考えるのは身勝手すぎる。  それは確かにそうなのだが、同時に王妃の示した嫉妬をどこか嬉しく感じた自分もいて、イスカは己の心の行方に戸惑った。  上に立つ者が私情に走るような真似を、今までのイスカなら決して好まないはずなのに。どうして彼女が自分に向けた独占欲は、嬉しく思えてしまうのか。 「そうだ。ついでだから相談があるんだ」 「どうした?」 「東鷲郡討伐の時の恩賞を、俺はまだ決めかねていただろ? 欲しい女がいるんだ。いいか?」  アビが唐突な申し出をしてきた。  これは戦場でする話ではないが、イスカが女の話をしたので良いかと思ったのかもしれない。  アビはまだ十六歳。嫁を得るには早すぎる年齢だ。彼自身が早熟な性分だから、家庭を持ちたいと欲しても不思議ではないが……。 「ほう。明家の女でも娶りたいということか?」  イスカが首をひねりつつも名を挙げたのはアビの母、明妃の実家のことだった。  明昭君の弟である(ミン)王檣(ワンチィァン)は、鵠国下ではただの下級貴族でしかなかったが、鴉威の民が木京を占領して以来、威国への忠誠を誓っていた。  残念ながら彼自身はあまり有能ではないのだが、自主的に近づいてくる者を無下にできないので、イスカは当り障りのない役職を与えていたのだ。  そんな王檣が血縁のあるアビとのつながりをもっと深めようと考えるのは当然の流れなので、イスカはてっきり叔父から何かしらの提案があったのだと思ったのだ。  しかしアビは首を強く横に振った。 「違うよ。あのおっさんは俺のことを甥っ子扱いしてくるけど、俺はあの一族と関わる気なんて無い。俺が欲しいのは翡翠姫」 「あぁ?」 「……の侍女の鴎花の方だ。いいだろ?」  兄が一瞬で気色ばむのを楽しむように、アビはややこしいところで言葉を区切ってみせた。  からかわれたと知ったイスカは憤慨しつつも、うまく言い返せないまま「鴎花だと?」と顔を歪めた。 「あれのどこがいいんだ?」  イスカの中で彼女の美しさは評価の対象ではなかった。  それよりも高慢ちきで、心が貧しいところの方が気に障っていた。主のことを何も考えていないような女が、弟に相応しいとは到底思えない。  そして兄から問われたアビ自身でさえも「いいところか……うーん、あったかな?」と考え込んでしまったのだ。
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