82人が本棚に入れています
本棚に追加
「田計里と縁故の者だそうだな」
「は。計里は羽林軍で知り合った朋友です。彼からは常々、陛下の徳の高きことを伺っておりました」
「しかしこれまでは威国に仕えず、野に下っていたわけだ。それが突然戦場へ出てくるとは、どういう心変わりがあったんだ?」
暑さで鴉威の兵士が弱り、羽林兵らの士気が低い今、志願兵の参加はありがたいのだが、おいそれとは受け入れることができない。
田計里の推薦状を持っているにせよ、同じ華人同士、長河の対岸にいる敵と内通する意図があるのかもしれないと、イスカが念のため疑ってかかるのは当然のことだった。
そしてイスカが蒼く光る瞳を向けると、髭面の大男は驚くほど素直に頷いた。
「確かに、私めは鵠国に忠誠を誓っておりました。中原の南の果て、郭の田舎で生まれた粗野な乱暴者でしかなかった私めを武官に任じ、禄を与えてくださったのは鵠国です。その深い恩義に応えんと武芸の腕を磨いておりましたが、私めはとりかえしのつかぬ過ちを犯しました。年始の変の折、木京の都の守備の要である玄武門を預かっておきながら、鴉威の兵と羽林軍の兵士を見誤り、門を閉じ損ねたのです」
「……」
「私めの無能さが、祖国の滅亡を招いてしまうとは……死して尚詫びきれぬほどの、情けなき所業であります」
大男の蓮角は、このまま泣き出すかと思うほど声を震わせていたし、実際小さな黒い目には熱いものを溢れさせていた。
よほど己の所業を悔いているのだろう。
それは同時に、この男の責任感の強さを物語るものでもあった。
「しかしこの度、私めの妻が王妃殿下に侍女としてお仕えしております御縁で、王妃殿下から直々に諭していただいたのです。いつまでも過去の過ちを悔いているだけが武人の為すべきことかと」
「雪加が……」
ここで王妃が出てくると思わなかったので、イスカは目を見張ることになった。
彼女はいつも控えめで、華人達とも進んで関係を持とうとしていなかったからだ。
それは王妃とは名ばかりの虜囚の身であることもさることながら、己の痘痕を恥じていることが大きな原因だった。いくら絹の面布を身につけていても、何かの拍子で素顔を見られてしまう可能性がある。その醜さを晒すことに、彼女はいつも怯えているのだ。
それなのにこうして華人の武官を鼓舞してくれたのは、何か役に立つことはできないかと、彼女なりに真剣に考えてくれた結果ではないだろうか。
「そうか……お前はあの林小寿の亭主か。そういえば働かない亭主がいて、自分が何とかしなければとか言っていたな」
「それはもうお恥ずかしい限りです。あの年始の変以来、私めは己を持て余しました。どうしていいのか分からず、死ぬことすらできなくなり、家に引き籠っておりました。そんな情けない亭主を妻はいつも朗らかに笑って支えてくれ……くっ……私めなどには身に余る妻であります」
どうやらこの男は激情家らしい。少し話をするだけですぐに泣き出す。
これは芝居か真実か……イスカの目は一段と深みを増して、目の前の大男を射抜く。
「それで、その妻が身ごもっていると、この度、妃殿下から伺いました」
「そうなのか」
それは全く気付かなかった。
小寿はこの亭主に負けず劣らぬ大きな体をしているから、腹が少しばかり突き出していても見た目では分からないのだ。
「私めには上にあと五人の子がおりますが、子供達に父親として今のような醜態を晒していることを心苦しく感じております。その上、これから生まれてくる赤子にまでかような姿を晒すのでは、いけない……と強く、思い……」
案の定、蓮角は途中で声を詰まらせてしまったが、それでもどうにか言葉を絞り出してきた。
「確かに、鵠国の武官として鴉威の民のために戦うは本望でありません。しかしこの戦に勝たねば、王妃様のお側に仕える妻と李っ子と腹の子は無事では済まされません」
「……」
「私めは今度こそ武官として悔い無き働きを……大切な家族を守りたいのです」
そのためにかつての部下達に声をかけ、共に馳せ参じたということだ。
「……よし、分かった。お前の参陣を許す。俺の直属として働け」
イスカは膝を打った。
別にこの男がこぼした大量の涙に感じ入った訳では無い。
ただあの豪快な小寿が入れ込んだ男であることと、彼の語った家族への想いには価値があると感じたのだ。
戦いたい理由があまりに卑小であると言う人もいるかもしれないが、逆にそういう身近なものの為に奮起するのは、自然な心の動きである。下手に格好つけた理由を言われるより信が置けた。
この先のことは、戦場での働き次第で考えることにすればよい。
ありがとうございます、と小さな目を細めて喜ぶ蓮角に、イスカは早速戦況について語った。華人からの意見も聞きたかったのだ。
「敵将は鄂鵬挙だ。東鷲郡の長官の倅で、父を殺された恨みで先鋒を買って出たらしい。一万の兵でこの川を渡ろうとして船を集め、対岸に陣を敷いているが、今のところ動きは無い」
「東鷲郡の……では、その時の手勢も率いているのですか」
「いや、あの男が連れているのは郭の地で募った兵だけだ。東鷲からは身一つで落ち延びたようだからな」
イスカが斥候の調べてきたことを伝えると、蓮角は「ならば兵士の多くは郭の民……」と、考え込んだ。
そして再び顔を上げた時、彼はその小さな瞳に並々ならぬ緊張感を走らせて言ったのだ。
「私めに策が一つございます。お聞きくださいますか」
最初のコメントを投稿しよう!