五章 常識の壁

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四.  イスカが木京に凱旋したのは、出兵してから二十五日後のことだった。  勝敗がついたのは六日前で、木京(ムージン)には一足先に威国(ウィーグオ)の圧勝という知らせが届いていたから、実際に王が姿を見せると、都の民らは大喜びで出迎えた。  挙兵した鵠国(フーグォ)の軍勢が都を解放できずに敗れたことを、華人(ファーレン)ならば残念に考えそうなものだが、木京の民とて兵隊にとられた男達が無事に帰って来たのは純粋に嬉しかったし、早めに戦争が終われば物価の上昇も最小限度に留められる。それに意外と居心地の悪くない蛮族達の統治に、一般庶民達は徐々に慣れ始めていたのだ。  そして戦に強い若き王への畏怖の念もますます強まった。これだけあっさり勝たれてしまうと、反逆を起こす気力も損なわれてしまうというものだ。  イスカは夏の暑さから鴉威(ヤーウィ)の兵士らを早く開放してしてやりたい一心で早期決着を図ったのだが、この素早い勝利こそが、蛮族達に武器を持って立ち向かったところで勝ち目はないという、華人達の諦めの感情の確固たる裏付けとなっていたのだ。 ***  イスカだって戦に勝ったのだから嬉しくもあり、誇らしくもある。  だが木京に戻り、華人の兵士らを家に帰し、鴉威の兵だけを率いて後宮の鉄門をくぐる時は少々緊張していた。  この門の向こうには王妃が待っている。  彼女が自分の無事を祈ってくれていることはよく分かっている。  分かっているが、どうにも不安でもある。  一体どんな顔をして出迎えてくれるのか。  しかしそんな気持ちを吹き飛ばすほどの強い熱気が、後宮でイスカを待ち受けていた。  後宮に入る重たい鉄の門扉を開け放つと、その先に集まっていたのは女達を始めとする鴉威の者達だった。  故郷の言葉で沸き起こる歓声は大地を震わせるように大きく、力強いもので、イスカ達兵士を一瞬で包み込んだのだった。 「八哥(パーグェ)!」  幼女が一人、怖いもの知らずにも行列の先頭にいたイスカの馬の前に飛び出してきた。  暑さ故に華人風の薄手の衣を纏っているが、褐色の肌を持つ彼女は、イスカの末の異母妹だ。  イスカは馬を降りて約九ヶ月ぶりに再会した妹を抱き上げる。 「おお。随分大きくなったじゃないか」 「うん! 八哥も大きくなったね」 「そうか?」 「だってたくさんの兵士を連れているもの」 「なるほど、そういうことなら俺は大きくなったのかもな」  イスカは無邪気な妹の頭を撫で、地に下ろしてやった。  群衆の輪の中から、たくさんの耳環を飾った女が一人、前に歩み出てきたのが見えたからだ。 「イスカ、戦勝おめでとう」 「アトリか。木京までよく来てくれたな」  やはり華人と同じ絹の着物を身に纏っていたアトリは感無量といった風に、イスカを抱き締める。 「あなたは私達の誇りだわ。鴉威の民がこんなに大きな国を治めるようになるなんて夢のようよ」  アトリは鴉威の民の中でも有力部族の出身で、明妃が亡くなってからはソビの妻の中でも正妻として遇されていた。だからこそ女達を代表してイスカに話しかけてきたのだ。 「みんなで宴の用意をしたわ。今夜は久しぶりに鴉威の料理を堪能してちょうだい」 「それは楽しみだな」  イスカと共に木京へ帰ってきた兵士達も大喜びしている。鴉威からやってきた女達とは同じ部族の者もいるのだ。懐かしい顔ぶれを前にして、誰もが大いに盛り上がっている。  そんな歓声の中心にいることで、イスカも徐々に心が解けていったのだが、自分を囲む人の輪の一角が、突然崩れたことに気付いた。  現れたのは裾の長い、翡翠色の絹服を身に纏った王妃だった。  薄布で顔を覆った彼女は、褐色の肌を持つ鴉威の民達の中にあると不気味でしかなかった。  それでも彼女は好奇の目に晒されながらイスカの前まで静かに進み出ると、地に膝をつき、三度頭を下げたのだ。 「空より高き叡智と、岩をも砕く武勇を備えし我が君よ。この度の勝利、誠に喜ばしく存じます。天帝のご加護とさらなる恩恵が、君の上に永久(とこしえ)にあらんことを」  鴉威の民たちが盛り上がっている中での、華語(ファーユィ)による小難しい挨拶。  場が一気に白けるのを、聡い王妃なら気付かなかったはずは無い。  それでも面布をつけた彼女は堂々と顔を上げ、イスカを真正面から見据えてきた。
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