五章 常識の壁

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「陛下をお迎えに上がりました。香龍(シャンロン)宮へ是非おいでくださいませ」 「ねぇ、イスカ。何を言ってるの、この女?」  華語を全く理解しないアトリが不快げに眉をひそめた。そしてイスカの腕を掴んで寄り添う。  それはまるでアトリこそが正式な妻であるかのような態度であったし、囲んでいる鴉威の民もそれが当然だと思っているから、誰もが場違いな華人の王妃に対し冷たい目を向けた。  それでも彼女に向かって直接の抗議の言葉を投げつけないのは、ただ華語が分からないというだけの理由である。 「何やってんだ、お前!」  こんな時のために存在するアビが、慌てた様子で王妃の元へ走り寄ってきた。  そして彼女の耳元に口を寄せ、小声で何か注意を与えたようだが、彼女は逆にはっきりとした声で反論してきた。 「私は陛下の王妃です。戦の後にはまず、正妃の元へおいでになるのが当然の礼節です。その礼節を陛下が率先して守られることこそ、秩序を保ち、国の安定に繋がりましょう。私は王妃としての役割を果たしているだけです」 「そうじゃなくてさ……」 「分かった。まずは雪加のところへ行こう」  イスカは苦い顔をしているアビを押しとどめた。そしてアトリを自らの身体から引き剥がすと、華語が分からない故郷の人々のために、鴉威の言葉で言い直した。 「俺は王妃の宮殿へ行ってくる。俺のことは気にせず、皆はゆっくり休め」 「え……」 「アトリは皆を(ねぎら)ってやってくれ。頼んだぞ」  この指示により、鴉威の者達の間には不穏なざわめきが波のように広がったが、それでもイスカは跪いていた王妃を立ち上がらせた。  そして供をするというアビすら断り、王妃一人を伴って香龍宮へと向かったのだった。 ***  約一ヶ月ぶりに香龍宮へ帰ると、ピトやフーイ、それに小寿(シャオショウ)とその末子の杜宇(ドゥユゥ)など、いつもの面々に出迎えられた。  まずは鎧の紐を解き、王妃が縫ってくれていた新しい衣服に着替える。  それは黒色の麻布で縫われた着物で、涼しくてとても心地よかった。  しかも袖と襟のところにだけ赤と白の糸で幾何学模様が刺繍されている。華人風の衣ながら鴉威の雰囲気も混ぜ込んでくれていたところに、王妃の細やかな心遣いが感じられた。  着替えているイスカの足元では、幼い杜宇がちょろちょろと走り回っていた。屋敷全体を包む華やいだ雰囲気に当てられ、興奮しているのだろう。  その姿は愛嬌たっぷりで可愛かったのだが、母の小寿からうるさいと叱り飛ばされ、しまいには首根っこを捕まえられ部屋を追い出されてしまった。  おかげでイスカは早々に王妃と二人きりになる。  今はもう顔を覆う薄布を外している彼女は、盆に載せた茶器で、イスカの為に茶を淹れているところだ。  その真摯な眼差しと、流れるような手つきが美しくて、イスカは心を惹きつけられる。  そして湯気と共に立ち昇ってくる爽やかな茶の芳香に包まれると、無事に帰ってきたなぁという実感が急に胸に込み上げてきたのだ。  鴉威の民達の想いには反してしまったものの、やはり香龍宮へ来て良かったと思う。 「……お前が(シィ)蓮角(リェンジャオ)に戦へ行けと言ってくれたそうだな。礼を言う」  王妃に対し最初に話すべきことは他にあるような気もするが、まずはそれを伝えたくて、イスカは茶を飲みながら口を開いた。 「あれはとても良い武人だった。あの男のおかげで早くに戦を終わらせることができたんだ」  イスカの言葉に誇張は無い。  蓮角は己が郭の出身であること、敵の兵士の大部分が同郷の者達であることを上手く生かした。  彼は郭の地の者達なら、矢を扱う時、その矢尻に祈りを捧げるであろうと予測したのだ。 「郭の者は迷信深く、矢や剣などを扱う前に必ずその刃を先を舐めます。それは刃が自分を傷つけることが無いよう、刃に持ち主を覚えさせるためです。ですからその刃に予め毒を仕込んでおけば戦わずして無力化できるのではないかと愚考いたします」  そう進言した彼の意見を取り入れたイスカは、毒を塗った矢を大量に用意して、葦切(ウェイチェ)に運び入れた。  そして羽林兵達の船で無理な突撃と後退を繰り返させて、敵の矢を消耗させ、最後に鴉威の兵士が、自慢の馬脚を活かして強引に川を渡ろうとして、失敗。右往左往しているという隙を見せたところへ(エァ)将軍がいよいよ船を出してくると、それに追われる格好で葦切からも撤退。  慌てふためいていた威国の兵士らは、食料や武器も葦切に残したままで、北岸へと逃げ込んだ。浮橋を切って落とす余裕すら無い混乱ぶりを、副将のケラは上手に演じきってくれた。  こうして長河の真ん中に浮かぶ小島を占拠した鄂将軍は、とうとう木京へ攻め込む足掛かりを得たと喜んだはずだ。  しかしこの翌日、手に入れたばかりの大量の矢を使って北岸へ攻め込もうとした瞬間、兵士の多くが体を震えさせて倒れ込んだ。そこへ威国の歩兵が浮橋を使って一気になだれ込んで来たものだから、彼は這う這うの体で船に飛び乗り、長河の南岸へ逃げていったのだ。 「身体が動かず、捕虜になったのは六千人余り。これらは全て、生かしたまま南へ追い返した。毒は強力な痺れ薬だから、この先も手足に違和感は残るだろうが、死ぬよりはマシだろう」
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