五章 常識の壁

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 イスカが捕虜を殺さなかったのは、この作戦を立案した蓮角の気持ちを尊重したからである。  彼は戦争で勝つことだけでなく、同郷の者達をできる限り傷つけないことも考慮して作戦を組み立てた。  この策は一歩間違えれば葦切を失い、威国を窮地に陥れるものであったから、ケラはなかなか同意してくれなかったが「そうなったらその時だ。いっそ連中が川を越えてくれた方が、こちらも騎兵を思う存分展開できて戦いやすい」というイスカの意見により、実行に移すことになった。  そして見事、威国を勝利へと導いたのだ。  話を聞き終えた王妃は、イスカに対し深々と頭を下げた。 「温情あるご処置、ありがとうございます」 「お前に礼を言われることでもあるまい。生かしておいた方が向こうは困るだろうと考えただけだ」  事実、体調不良の六千人を押し付けられた鄂将軍は、彼らの手当てに奔走し、とても戦争どころではないので一旦、郭の地へ戻ることになった。  それに皆殺しにすれば、華人達の鴉威の民への憎しみは倍増しただろうと思うのだ。そしてイスカの配下となっている羽林兵達の中にも動揺が広がったに違いない。  そういう意味では、これはイスカにとって極めて利己的な判断であり、敵に温情をかけたわけでは無い。 「でも私の同胞である華人達を殺さずにいただいたのですから、礼は申しますよ」  王妃は微笑み、その時、背後で戸が開いて小寿が戻ってきた。悪戯坊主を自室へ閉じ込めて戻ってきたのだ。 「あぁ、小寿か。蓮角はまだ勤めが残っているが、後でここにも来させよう。この戦はあれの働きで勝ったようなものだ。大いに労ってやれ」 「ありがとうございます、陛下」  王から直々に声をかけられた小寿は、何度も頭を下げて礼を言った。  生きる気力を失っていた夫が活気を取り戻してくれただけでも、彼女は嬉しいのだろう。  そしてそんな小寿に目を細めていた王妃は「では、少し休まれたら宴へ行って来てくださいませ」と言った。 「いいのか?」  思わず問い返してしまったのは、先ほどイスカを迎えに来た時の彼女の態度を見ていたからだった。  正妃への礼節を真正面から要求してきたのに、今になって鴉威の女達の元へ行くよう勧めるとは、理屈が通らない。  しかし彼女は一番最初にイスカが香龍宮へやってきたことで満足したようで、鷹揚に微笑んでみせた。 「陛下は私だけのものではありませんから、いつまでもここにいてはいけません。それに皆さん、懸命に用意なさっていましたよ。陛下が行かぬと無駄になってしまいます。今宵はどうか故郷の味を堪能して来てくださいませ」  こうしてイスカは王妃に見送られて、杜鵑(ドゥジュン)宮へ向かうことになったのである。 ***  夕刻、イスカが杜鵑宮へ行くと、ちょうどこれから宴が始まるところだった。  集まっていたのは三百人余り。  鴉威の民だけでなく、羽林軍(ユーリンジュ)の将帥ら、華人達も参加している。石蓮角だけでなく、後方支援を担当していた(テェン)計里(ジーリィ)の姿も見えた。何故だか戦とは全く関係のない白頭翁(バイトウウォン)までやってきている。  しかし華人らは人数も少ないため、賑やかに騒ぐ鴉威の男達に押し出される格好で、隅の方に集まっていた。  言葉の壁もあり、彼らと積極的に関わろうとする鴉威の民はほとんどいなかった。イスカはその様子を一段高いところから眺めたが、民族の融和が難しい事実を突き付けられた思いがしていた。  王妃が言っていた通り、イスカの新しい妻達はこの宴のために懸命に準備をしてくれていたようで、皆の前には食べきれないほどの豪華な料理が並んでいた。  鴉威の地において、夏場は家畜の乳を使った料理しか食べないものだが、ここは中原で食材も豊かにあるものだから、ホーショル(揚げ焼き肉まん)やチャンサンマハ(骨付き羊肉の煮込み)などの肉を使った料理も数多く並んでいた。 「さすが鴉威の飯は美味い。華人達が作る飯は野菜ばかりだし、味が無くてつまらないんだ」  将兵の一人が歓声を上げていたが、それは確かにイスカも思っていたことだった。王妃は一生懸命に作ってくれているから、これまで文句を言ったことは無いが、彼女の料理は全て塩気が足りない。  それに比べて今日出された料理は、岩塩だけで味をつけているから肉の味を直接感じられ、どれも美味しく感じた。  しかし鴉威の民の口に合うということは、逆に言えば華人達には塩辛くてたまらないということになる。  しかも手掴みで食べることが、礼儀作法にうるさい華人達にはどうにも許せないようだ。大きな羊肉の塊を前に戸惑った顔をしている田計里の横顔が、イスカの座っている場所からもしっかり見えていた。  そして何より彼らが参っていたのが……。
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