五章 常識の壁

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「イスカはアルヒが好きだったわよね」  アトリを始めとする五人の新しい妻達がイスカにしだれかかって酌をしてくれるのは、鴉威の伝統的な酒のアルヒ。  家畜の乳を蒸留したもので、イスカにはこれくらいの酒精がちょうど良いのだが、華人達にとってはキツ過ぎる酒らしく、全く飲もうとしていない。  唯一例外だった白頭翁だけは酒じゃ酒じゃと喜んで飲んでいたが、たった一杯で参ってしまい、今は高鼾をかいて田計里の脇で眠っている。  原料が乳なので、華人には臭いからして受け入れられないのだろう。そういえば王妃も獣の乳は鼻につく生臭さがダメだと、いつも言っている。  酒席で酒を飲めないのでは、気持ちも白けるばかりだろう。しかし最初に注がれた酒は三杯を立て続けに飲むのが当然である鴉威の習慣から考えれば、口を付けることもしない華人達の態度は非常に印象が悪く、皆が近付きたがらないのも理解できる。 (……これは良くない状況だな)  せっかくの戦勝を祝う宴であるのに、これでは鴉威の民と華人が、互いを悪く思うだけで終わってしまう。  ここは王自らが間に入って取りなすべきかと思ったが、先ほどから女達がイスカを取り合って離してくれない。  今夜は誰と寝るの?、と露骨なこと聞いてくるのは一番若いニオだった。  幼い娘を寝かしつけて戻ってきたサルカも、四十をいくつか過ぎたアトリだって、己の容色にはまだまだ自信があるようで、若い女達にイスカを譲る気は無いようだ。最年長のウカリだけが、閨の争いに加わる気が無いことを明らかにするべく、配膳の世話に回っている。  イスカだって女達に言い寄られるのは決して嫌じゃなかった。正直なところを言ってしまえば、鴉威の女達のふっくらした体つきの方が細身な王妃より肉感的で、魅力を感じている。  それなのに、イスカの気持ちは彼女らの上にまるで無かった。  今こうして酒を飲んでいる間にも、文句も言わずに宴へと送り出してくれた王妃の姿が、瞼の裏にこびりついて離れないのだ。  この麻の着物一つをとっても、彼女の素晴らしさはよく分かる。  暑さが苦手なイスカの過ごしやすさを考えて中原で愛用されている麻の服を縫っておきながら、彼女は鴉威の民らしい黒い布を用い、さらには、袖口に赤と白の糸で鴉威の文様を刺繍してくれているのだ。  こんな細やかなところにまで気配りを見せてくれる王妃への愛しさが込み上げてくるのは、当然のことではないだろうか。  しかし鴉威の男達の感想はまるで違う。 「女は鴉威に限るな」 「華人の女は偉そうで澄ましていて、どうにも気に入らん」  酒が回ってきた彼らの一部が、鴉威の女達の元で配膳を手伝っていた華人の下女らに絡み、彼女らにくだらない罵声を浴びせ始めたのだ。  投げつけられる言葉がよく分からない華人達は愛想笑いで受け流しているが、その声は次第に高くなり、イスカも酒の上の戯言で済ませられないように感じてきた。彼らの発言はいつしか女達だけではなく、華人全体に向けられたものになってきたからだ。 「華人は軟弱者ばかりだ。この戦でも、まるで赤子の手をひねるようなものだった」 「いつも偉そうな顔をしてるくせに、まるで実が無い。これでよく中原の王として君臨していたものだ」  長年、鴉威の民を蛮族と蔑んできた華人達を憎く感じる気持ちはイスカも同じだ。  でもそれは彼らに負けたくないから生まれる対抗心だった。  彼らが鴉威を見下すのなら、それ以上になろうと思った。  決して華人を見下している訳ではないのだ。  お前らいい加減にしろよ、と声を荒げかけたところで、女の一人がイスカの左手を握ってきた。  アトリである。 「イスカは生真面目よね」 「うん?」  ちょうど立ち上がろうとした、その出鼻を挫かれた格好になったイスカは苦い顔をしたが、彼女は左手を包み込むように、もう片方の手も優しく重ねてきた。 「ほら、さっきのあなたを見ていて思ったのよ。あなたは王ならば王妃を愛でなければいけないと、自らを縛っているでしょ」  でもそんな窮屈な思いをする為にこの国の王になったわけでは無いんじゃないの?、とアトリはイスカの耳元へ熱っぽく囁く。 「これからは私達がいる。あなたはもう我慢しなくていいわ。抱きたい女くらい、好きに選んでいいのよ」 「……生憎と、俺は好きで雪加を選んでいる。それは強制や義務じゃない」  アトリの柔らかさと温もりに満ちた手を迷惑としか感じられなかったイスカが、仏頂面で言い放った時だった。 「ははっ。そんなに王妃様がいいなら、俺が今すぐここへ呼んで来てやるよ、八哥」  一段低いところでケラ達と一緒に飲み食いしていたはずのアビが、不意にイスカの前に立ちはだかったのだ。
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