五章 常識の壁

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 今日も羊の毛を編んだ伝統的な暑苦しい衣装を身につけている異母弟は、その目元を赤く染め、足をふらつかせていた。  アビは酒が苦手なのだ。しかしそんな自分をひどく嫌っていて、無理に飲むからいつも悪酔いする。 「なんだと?」  酒精で濁った眼をした弟から不穏な気配を感じ取ったイスカは、自然と眉の端を吊り上げたが、酔っているアビはそれくらいでは止まらない。 「ははは、何と言っても王妃様は中原の宝玉、翡翠の姫だからさ。あの美しさにはみんな腰を抜かすぜ。透き通るような白くてすべすべの肌も、間近で拝ませてもらったらいいさ」 「そうね。私も翡翠姫には会いたいわ」  呂律が回らず、語尾がはっきりしないアビの言葉に、アトリまで賛成の意を表してしまった。 「あの人、自分の宮殿に籠ったきりだから、全然関われなくて残念だったのよ」 「さっきも顔に布をつけていたから、顔見れなかったし」 「きっと翡翠が煌めくように美しいんでしょうねぇ」  アトリに追従するように、他の女達も笑顔を浮かべた。  しかし彼女らが交わす言葉の端には、明らかな毒がある。  王妃が痘痕面であることを既に知っておきながら、人前へ引きずり出して揶揄する気なのだ。  イスカは不意に母のことを思い出した。  実は疱瘡にかかった母の病状は、さほど悪くなかったのだ。  しかし息子が亡くなった衝撃に加え、自分の顔を覆う痘痕に、母は絶望してしまった。  こんな顔では表を歩けないと気弱なことを言ううちに食も喉を取らなくなり、衰弱して亡くなった。  イスカは痘痕なんて嗤わない、生きていてくれるだけでいいんだと願ったが、母は聞いてくれなかった。  大勢の妻達の中で競い合って生きていた母にとって、あの時感じた絶望は、息子がちょっとやそっと慰めたくらいで埋められるものでは無かったのだ。 「へへへ。それじゃあ、俺は今から香龍宮へ行ってくるよ」 「勝手をするな!」  気が付けばイスカは、背を向けたアビに向かってとびかかっていた。目の前に並べられていた膳だけは上手く飛び越えたつもりだったが、弟を引き留めようと肩を掴んだはずが、勢い余って押し倒してしまう。 「うわぁ?!」  突然、派手な音を立てて部屋の中央へ転がった王とその弟に対し、周囲からは大きな悲鳴が上がった。  傍からは、仲の良い兄弟が戯れているだけに見えないことも無かったが、揉み合う二人が殺気立った目をして互いを組み伏せようとしていることに気付くと、驚きのあまり誰も間に入れなくなってしまった。  そんな中、先に起き上がってきたのはイスカの方だった。  転んだ時に口の中を切ってしまったイスカは、苦い鉄の味を噛み締めつつも、ふらふらと頭を上げた。そして足元に転がっている弟を一瞥すると、地を震わせるような唸り声を上げる。 「アビだけじゃないからな。お前達が許可なく雪加に関わることを許さない。あれは俺の大事な王妃だ」 「??」  倒れた二人を案じて周りへ集まってきた者達は、自分達の王がなぜ怒っているのか、それ以前に、一体何の話をしているのかすらよく分かっていなかったので、呆気にとられた顔で眺めてくる。  鈍い反応を示す故郷の者達に対し、イスカはその場で仁王立ちになり、声を張り上げた。 「改めてお前達に聞く。この戦に勝てたのは何故だ?!」 「そ、それはもちろん、イスカの采配と、ケラの用兵が優れていたおかげで……」  すぐ脇から返ってきた鴉威の将兵の言葉に対し、イスカは大きな舌打ちを漏らした。 「戦場に出たのは鴉威の兵だけだったか? 何カ月も前から投石器の準備をしていたのは誰か。わずか二日で五本もの浮橋をかけたのは誰の技術だ。軍船を動かしたのは? 一万を超える兵士の糧食や武器を余すことなく用意したのは誰なんだ」  畳み掛けるようなイスカの問いかけは華語でも繰り返され、誰もが黙り込んだ。  特に鴉威の者達は戸惑った顔をしている。  自分達の影で働いていた華人達のことなんて、まるで気にかけていなかったからだ。  年始の変で勝利して以来、華人達は鴉威の民の配下となったのだ。そんな者達にまで気を向ける必要性は無いと思っているのだろう。  しかしそれではいけないと、イスカは訴える。 「俺達は華人に勝ったんじゃない。郭宗方の軍勢に勝った。ただそれだけのことだ。そうだろう?」 「……」 「俺が常々言っていることをよく思い出せ。中原を支配するということは、華人を蔑むことでも抑圧することでもない。鴉威はどう振る舞うべきか、もっと広い目で物を見て、そして考えろ」  それだけ言うと、イスカはいまだ床に転がったままだったアビの腕を掴み、引っ張り起こした。  酒が回った弟は、もはや体に力が入らない様子だったのだ。
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