五章 常識の壁

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 しかし兄が直々に助けているのに、黒い瞳の異母弟は不貞腐れた目をして、ぷいと顔を背けるのだ。  この態度にはイスカもむっとしてしまい、後で注意しようと思っていたことをこの場で咎めることになった。 「お前も鴉威のしきたりってものを華人達には事前に説明しておけ。予め知っていれば、余計な衝突が減る。それくらいのこと、お前が気付かなくてどうする」 「……」 「それから、アトリ」  あくまで反抗的な態度を崩さない弟を突き飛ばすようにして再び床の上に転がしたイスカは、女達の方にも振り返った。  怒っているイスカに怯え、自然と女同士で身を寄せ合っていたアトリは、思わぬところで名を呼ばれたものだからびくっと体を震わせた。耳を飾る大きな銀の輪がカチャリと音を立てる。 「お前も同じだ。これから宴をやる時には全員の口に合うものを用意するんだ。鴉威も華人も、全員が威国の民である。それを肝に銘じろ」 「で、でも、イスカ……」  咄嗟に反発の言葉が出てしまったのは、アトリ故のことだった。  まだソビの正妻としての意識の方が強いアトリにとって、イスカは心を込めて仕えるべき夫ではなく、夫の子供という、アトリの方が庇護する対象なのだ。  しかし若き中原の王は、そんな甘えの滲んだ彼女に対し、より一層厳しい態度で臨んできた。 「お前は王に向かって口答えするのか?」 「いえ……申し訳ありませんでした」  アトリを平伏させたイスカは、もう彼女らの元には戻らず「後は皆で好きにしろ。俺はもう休む」と言い捨てた。  そして、そのまま華人達の輪の方へと向かうと、彼らは平伏して王を迎えた。  ほとんどが鴉威の言葉で交わされていた話だったから、彼らにどこまで伝わったかは不明だったが、威国の中で華人達が少しでも肩身の狭い思いをしないでくれたらいいと思う。 「石蓮角、田計里、行くぞ。供をしろ」 「は」  呼ばれた二人は即座に頷いたが、イスカの視線は田計里の傍らで気持ちよく鼾をかいていた白髪の老人の上で止まった。この老人、これだけの騒ぎの中でよくも眠れたものである。 「なんだ、白頭翁はまだ寝ているのか。仕方のない奴だな。じゃあ、一緒に連れて来い。布団の上で寝かせてやろう」  イスカの指示で白頭翁の小さな体を蓮角が背負った。  そしてイスカが華人達と共に去っていくと、それまで静まり返っていた宴席にもぼそぼそと話をする声が戻ってきた。  イスカの指摘を真摯に受け止めて反省の色を見せる者、何を言われていたのかすぐには理解できない者など、各々の反応は違ったが、自分達が王の怒りを買ったことは確かであり、先程までの楽しい雰囲気は台無しになっていた。  中でも女達は強い不満を抱いていた。  中原に出てきてまだ日の浅い彼女らは、イスカがこれまで苦労して華人達を従えてきた過程を知らないので、勝者である自分達が何故華人なんかに気配りをしなければいけないのか、余計に分からない。  中でも名指しで叱咤されたアトリの脱力感は大きく、彼女は唇をくいと突き出して不快感を露わにしていた。  先ほどまでイスカが飲んでいた盃を手に取り、残っていたアルヒを一気に飲み干したアトリは、まだ床の上に転がっていたアビの元へ行き、その傍らにしゃがみ込んだ。 「なぁんか、盛り下がっちゃったわね。ねぇ、アビ。景気付けに何か余興でもやってよ。そうね……あの池の真ん中にいた華人の女がいいわ。ここで踊らせて頂戴」 「あぁ?」  酒に酔い、濁った目をしたアビは、話しかけられても起き上がるのが精いっぱいだったが、他の女達はアトリの提案に目を見開いた。 「それって、一人で踊ってばかりいる、あの変な女のこと?」 「島への橋も壊され、閉じ込められてるらしいじゃない。でも頭がおかしいのに後宮へ置いたままにしているなんて、おかしな話よね」 「まぁ、余興にはいいかも。華人の踊りってのも見物してみたいわ」 「……あいつには絶対関わるな」  アビは漆黒の瞳で女達を睨みつけた。  若すぎる彼の言葉には威圧感の欠片も無いが、酒で理性が飛んでいるせいで、何をするか分からない危うさは剥き出しになっている。  まるで飢えた獣が周囲を威嚇するかのように、アビは喉の奥から低い唸り声を上げた。   「あれはお前達が関わっていい女じゃない」 「え……? それってどういうこと? 一体、何者なのよ?」  予想外の反応に驚きながらもアトリが問うと、アビは一言「俺の玩具だよ」とだけ答え、そのまま床へと逆戻りした。  先ほどから天地が直角に傾いているのだ。体を起こしているのも辛い。  目を閉じても、胃をひっくり返せそうな吐き気と頭痛が減ることは無く、アビは憎たらし気に「くそったれが……」と呟いた。  それが一体誰に対しての言葉であるのか、もはや言った本人にも分からない。  ただ泣けてきた。  名をつけられない感情が、胸の奥から幾重にも重なって溢れてくるのだ。   「くそったれが……」  歯軋りしながら、もう一度同じ言葉を絞り出したアビは、そのまま混濁した意識の向こうへと落ちていったのだった。
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