五章 常識の壁

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***  弟より遥かに酒に強いイスカがしっかりした足取りで香龍宮へ帰ってきた時、鴎花は小寿と二人で縫い物をしているところだった。  休んでも良かったのだが、小寿の夫は宴が終わった後で来るかもしれないし、一緒に起きて待っていたのだ。もちろん幼い杜宇は先に寝ている。   「まぁ、陛下……」  扉の向こうから姿を現したのが蓮角だけではなかったので、鴎花は目を丸くしてしまった。 「なんだ。王が王妃の元に帰ってきて何が悪いんだ」  鴎花の反応から、自分が歓迎されていないと受け取ったのだろう。イスカは拗ねたように口を尖らせてしまった。  その蒼い瞳はいつもより粘っこい。酒が入っているせいだろう。  鴎花は苦笑を噛み殺しながら、イスカを部屋の中へと招き入れた。 「悪いとは申しておりませんよ。ですが、まだ宴の最中ですよね?」 「小寿のために亭主を連れて来てやったんだ。それとこの酔っ払いを休ませてやりにな」  イスカが指さした先、蓮角の背では白頭翁が気持ちよく寝ていた。  鴎花はその姿にくすりと笑うと、とりあえず目についた自分の寝台を使うように促し、小寿と協力して老人を下ろしてやった。よほど深く眠っているのか、白頭翁はまるで目を覚ます気配がなく、鴎花の寝台の中で僅かにむずがるような仕草を見せただけですぐに腰を丸めて、甲高い鼾をかき始めた。  イスカは小寿に話しかけた。 「お前には今から三日間休みをやる。亭主と子供を連れて家に帰れ」  イスカの言葉に小寿ははっと目を見張り、そして夫と視線を交わした。 「蓮角はこの先も羽林軍で働く。ゆえに、お前たち家族が官舎へ戻る為の準備も必要だろう。子を産む支度もいるだろうから、この先も不都合があれば遠慮なく言え」 「あぁ、ありがとうございます」  主君の気遣いには小寿は元より、蓮角も涙を流して喜んだ。  こんなに大きな体の男性が涙を流すことに鴎花は驚いたが、そういえば彼は初めて出会ったときにも、翡翠姫様から直々にお言葉をいただけるなんて、と泣いて感動していたか。  そんな激情家の友人に付き添ってやってきた田計里も、夫妻と共に喜んでいたが、この後イスカは彼に対してとんでもないことを言い出した。 「ところで計里、お前は幾つになるんだ?」 「私めの年齢ということですか? 四十二ですが」 「ふうん、じゃあ、アトリを妻にしろ」 「ふえ……?」 「あぁ、言葉の事は心配いらないぞ。誰か華語を喋れる奴もつけてやる。安心して娶れ」 「い、いえ、そういうことではなくて……あの、アトリとは一体どなたで??」 「俺の父の妻の一人だ。さっき俺の側にいただろう。耳環を一番たくさんつけていた女だ」 「は、はぁ……」 「歳も近いし、お互い連れ合いに死なれているしちょうどいいだろう。面倒見のいい女だぞ。お前もきっと気に入る」  突然降って湧いた縁談に、計里は口から泡を噴き出さんばかりだったが、イスカは有無を言わせなかった。  計里はこの後、白頭翁の代わりに眠っている息子を背負い直した蓮角とその妻と共に退出していったが、最後まで蒼白な顔をしたままであり、その胸中を思いやると鴎花は何とも言い難い。  しかしイスカは思い付いたばかりの自らの案に大いに満足しているようで、鴎花に対しては自慢げな目を向けてきたのだ。 「今の話はアトリだけのことじゃない。他の女達にも華人の夫を探してやるつもりだ。女達が華人と鴉威の架け橋になれば、威国の国益に繋がる」  イスカの説明に、鴎花は胸のつかえがすうっと消えていくのを感じた。  さすがは威国の王。賢明な判断である。  そういうことなら華人も鴉威の民も、双方が納得してくれるだろう。 「あぁしかし、お前の侍女に勝手に休みを与えて悪かったな。誰か代わりを探しておこう」 「三日間くらいなら問題ありませんよ。私だって身の回りのことはそれなりにできますから」 「そうか……じゃあ、俺も三日くらいは休むかな。今度の戦はやたらと疲れた」  そう言って絨毯の上へ寝転ぶから、鴎花はその脇に腰を下ろした。  するとイスカは当然のように鴎花の膝の上へ自分の頭を置き直したのだ。そして目を閉じる。 「……あのな、雪加」  イスカがおもむろに話しかけてきた時、寝台の上で寝ているはずの白頭翁の鼾が止んでいることに鴎花は気付いた。  静かな夜だった。  杜鵑宮から離れているせいで、今この宮殿に響いてくるのは蛙の鳴き声と虫の音だけだ。どうやら季節は暑さ厳しい夏から秋へと切り替わろうとしているらしい。  鴎花は膝の上にある男の頭の重さをじんわりと感じながら「はい、なんでしょう?」と尋ねた。
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