五章 常識の壁

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「お前を王妃にしたのは俺だ」 「はい」 「でも本当は翡翠姫でなくても良かったんだ。皇女は他にもいたし、天帝の血を引く女であるなら誰でも良かった。それでも俺はあの夜お前をみつけて、お前を選んだ」 「……はい」  鴎花は淡く微笑むと、イスカの短い黒髪を指の腹で優しく撫でてやった。  この人が何を言いたいのか、手に取るように分かる。鴎花と離れていた間、ずっと自分の発言を悔やんでいたに違いない。 (……全くもう……)  戦場にあれば武勇に優れた将帥であり、異国の民をまとめ上げるほどの器量を持った賢王なのだ。  そんな人がこんなに可愛い姿を晒してくれるなんて……本当に、鴎花をどこまで魅了したら気が済むのだろう。  イスカはいつの間にか目を開けて、鴎花のことをじっと見上げていた。 「お前はこれからも今日のように皆の前で正妃として堂々と振舞ってくれたらいいし、万に一つでもお前を嗤うような奴がいたら、俺が罰する」 「陛下……」 「俺の妻はお前だけだ」  髪を撫でていた鴎花の手が止まった。  それは国を治める者としては、大胆過ぎる発言であろう。鴎花がいまだ世継ぎを上げていない以上、国の存亡にも関わる話だ。  しかし鴎花の膝の上にある蒼い瞳は、眩しいほどの真剣な光を放っていたのだ。 「俺がお前を選んだ以上、お前が王妃でいることを嫌だと思わないよう、気を付けるのも俺の務めだろ?」 「ありがとうございます……ですが私は嫌になりませんよ。私には陛下だけです。陛下のいらっしゃるところが私の居場所ですから。いつまでもお側にいられるよう、私は今よりもっと力を尽くしてまいります」  そう。全て、鴎花がイスカの妻でいるための策だった。  小寿の夫が郭の地で生まれた華人の将兵ならば、この戦でイスカの力になるかもしれない、と戦地へ送る。  礼節を口実に、正妃としての地位を鴉威の者達に見せつけ、認めさせる。  鴉威の伝統を重んじるイスカのために、彼が喜びそうな着物を縫い、鴉威の女達の顔を立て、イスカの立場にも配慮するという度量の広さも見せる。  鴎花の全ての行動は、白頭翁に図り、練りに練ったものだった。  あざとい? いや、痘痕面の偽物ならば、それくらいの手を尽くすのは当然だろう。  イスカとこうやって二人きりで過ごす時間を守るためならば、鴎花は何だってする。 「翡翠姫にそこまで言ってもらえるのは光栄だな」  冗談めかして笑ったイスカは、そのまま鴎花の首筋に手を伸ばして、抱きしめてくる。  すると突然唸り声のような低い呼吸音が背後から聞こえてきて、動きを止めることになってしまった。  はっと息を飲んだ二人は、それが白頭翁の鼾であることに気付き、顔を見合わせて笑ってしまった。 「まったく……王より高いところで眠るとは、図々しい奴だな」 「今なら小寿の寝台が空いています。運ばせましょうか」 「いや、このままでいい。今からピトとフーイを呼んでくるのも面倒だ」  興を削がれたのか、イスカは鴎花を手放し再び床の上へ転がってしまう。そして大きく伸びをした。このまま眠るつもりなのだろう。 「それより、明日の朝飯は久しぶりにお前の作ったものが食べたいな。そうだな、豆腐がいい。あれを山羊の乳で煮て汁にしてくれ」  豆腐は大豆を加工した、中原で好まれる食べ物の一つだ。  もちろん鴉威の地にはない食材だが、イスカは気に入ってくれている。 「できれば、いつもより塩を多めでな」 「はい。かしこまりました」  鴎花はくすりと笑って頷いた。少しばかり塩気を増やしたところで、鴎花の味付けがイスカの好み通りになることはないのだろう。  それでもイスカは鴎花の手料理を食べたいと言ってくれる。  それだけで十分満足だ。  鴎花は自分の上着を持ってきてイスカに掛けてやった。それから燭台の明かりを消し、彼の隣へと寝そべる。  こういう時に絨毯は良いと思った。床の上なのに、心地よく眠ることができる。  イスカは闇の中で手を伸ばして、鴎花の体を引き寄せてきた。それ以上のことをする気は無くとも、彼の体温とその息遣いを肌で感じるだけで、鴎花の心はこれ以上ないほど満たされる。 「それと、お前の侍女の鴎花のことなんだがな」  突然振られた話は衝撃が大き過ぎて、鴎花は一瞬で身を強張らせた。 「な、何か粗相でも致しましたか?」 「いや、アビが嫁にほしいと言っているんだ。いいか?」 「そ、それは……どうぞご勘弁くださいませ。鴎花は内気な娘ですから、応と言うはずも無く……」  鴎花はしどろもどろに答えたが、内心ではそれ以上に動揺していた。  どうしてアビがそんな申し出をするのか。  彼は雪加こそが翡翠姫だと気付いているのだ。それなのに雪加を欲しがるなんて、この国の王となる資格を得たいと言っているようなものではないか。  闇の中ではイスカも首をひねっていた。 「俺もあの女の何がいいのだか分からないんだがな。だがアビの言い方だと、二人はもう通じているようだぞ」 「ええ?!」  あの誇り高い雪加が蛮族と蔑む男と通じるなんて、それこそありえない話である。  一体どういう流れでそんなことになってしまったのか……イスカに抱きしめられながらも、鴎花の頭の中はますます混乱してしまうのだった。
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