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六章 疑念の先
一.
「姫様……一体どういうことなのですか。アビが、姫様を娶りたいと申し出たそうですよ」
浮き島での平穏な朝は、鴎花の訪問で破られた。
彼女は小舟を鴉威の従者に漕がせてここまで来たらしい。
小屋の引き戸を壊さんばかりの勢いで部屋の中へ単身飛び込んで来た鴎花は、本来主君に果たすべき儀礼も忘れて詰め寄ってきた。
この痘痕娘は浮き島を出て以来、ただの一度も顔を出さずに主君を放りっぱなしにしていたくせに。
それなのに蛮族の戯言を真に受けた時だけすっ飛んでくるとは、本当に嘆かわしい心根の持ち主である。
「蛮族ごときが妾を娶りたいじゃと? 何と寝ぼけたことを言い出したことか」
雪加自身もその話は初めて聞くものであり、本当は大いに驚いていたのだが、それを露にするのは癪だから鷹揚に笑い飛ばしてやる。
鴎花がこの話を聞いたのは四日前、イスカが戦から戻ってきた日のことで、本当はもっと早くに真相を問いに来たかったらしい。
だが香龍宮にイスカがずっと滞在していたので、彼が政務に戻るまではどうしても出てこられなかったそうだ。
「……あの者は姫様と私の素性を知っております」
鴎花は重々しい口調で秘密を打ち明けたが、それくらいは雪加も知っている。故に「だからなんじゃ?」と冷たい目を向けてやった。
「彼はそれを他へ明かす気は無いと申しておりましたが、しかし翡翠姫を娶るということは、中原を治める資格を得るということにつながります」
「うん?」
「ですから、口に出すのも憚られることながら……あの、まさかアビは、陛下にとって代わろうと叛心を抱いているのでは、と思い……」
どうやら鴎花は随分と見当違いな慌て方をしているのだと、話の半ばで気付いた。
どんな時でもあの僭王を第一に考えるあまり、彼女の頭はおかしな方向へ進んでいるらしい。
「なんと愚かなことを言うものか。あのとち狂った男が、そんな真っ当な野心を抱くなどありえぬわ」
雪加は高笑いを投げ付けたが、それに対し鴎花は弾かれたようにその場へ膝から崩れてしまった。
「……姫様はアビのことをよくご存じでいらっしゃるのですね」
放心してしまった様子の鴎花は、どうやら雪加とアビの仲について確信を得たようだと分かった。
雪加は反射的に目を釣り上げたが、鴎花はむしろそんなとげとげしさをも包み込むような、憐れみをこめた目で乳姉妹を見つめてきた。そして雪加の腕に縋りついてきたのだ。
「一体いつからなのです? ここへ一人きりになった時からですか? もっと前? 姫様は確かに気の短いところがおありですが、いくらなんでも度が過ぎるとは思っていたのです。もしかして、鴉威の者達に捕らえられてからずっとあの者に無理やり……」
「離しやれ!」
雪加は苛立ちそのままに、鴎花を突き飛ばした。床に倒れ込む彼女を見下ろし、拳をわなわなと震わせる。
「控えよ。妾は翡翠姫ぞ。蛮族と関わり合いになることなど、ありえぬわ。余計な勘繰りは無礼である」
「しかし姫様……あの者も何も縁が無いのにわざわざ姫様を嫁にしたいなどと言ってこないでしょう。やはり無理やり迫られ……」
床へ転がされてさえ、鴎花は雪加を痛ましげに見つめてくる。主君が蛮族に乱暴を働かれていながら、何も気付くことができなかったことを悔いているのだろう。
しかしそのような目で見られること自体が、誇り高い雪加には耐えがたいのだ。
「何もないと言ったら何もない!」
「ですが……」
「しつこい!!」
癇癪を起こした雪加の手が、とうとう鴎花の頬を打った。
あまり大きな音を立てては舟の上で待っている鴉威の従者の耳に入ってしまう。
それは避けねばならないと頭では分かっているものの、高貴な身の皇女が蛮族と情を交わしたと疑われるのは雪加の自尊心が許さないのだ。
甲高い声で叱られた鴎花は平伏した。そしてようやく話をしても無駄であると悟ったようで、這々の体で浮き島から出て行くことになった。
そんな彼女と入れ替わり、小舟に乗ってやってきたのはアビだった。
「なんじゃ、そなたまで来たのか。今日は朝から客が多いのぉ」
軽い身のこなしで舟から降りた黒衣の青年に対し、雪加は胡散臭げな目を向けた。
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