六章 疑念の先

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 彼がここへ来るのは戦が終わって以来、初めてのことである。  綱を使って舟を岸辺の杭に繋ぎとめているその動きを見る限り、どうやら怪我らしい怪我もせず五体満足で戦場から帰還したらしい。  しかし雪加は無事を喜ぶことはしてやらなかった。  逆に残念そうに眉をひそめて睨みつけてやる。 「なんじゃ。せっかく妾が鴉威の禁忌を犯して踊り続けてやったのに、戻ってきたか」  雪加は出陣前夜、泳いで浮島までやってきたアビから、戦の間は舞いをしないように指示されていた。  鴉威の女達は夫や息子が戦へ行っている間の歌舞音曲を禁忌にしているという。特に出陣する時に女の舞いを見てしまうと、心が惑い、討ち死にしてしまうらしい。  それを聞いた雪加はアビが出陣する日には、一日中踊り続けてやったし、その後も体力の続く限り舞った。  なのにこの男は無事に戻ってきてしまった。残念でしかない。 「そりゃ悪かったな。ただ今回、俺の出番はほとんど無かったんだよ。だから手柄も無ければ、死ぬことも無かったって訳だ」  アビはニヤニヤ笑いながら家の中へと勝手に入っていった。  狭い部屋の真ん中には、竹を組んだ二階への梯子がかかったままになっていた。いちいち片付けるのは面倒だからそのままにしているのだが、アビは当然のようにその梯子を使って二階の寝間へ上がる。そして雪加が後についてこないと知ると「なんだよ、久しぶりで照れてるのか」とからかってくるから「そんなわけあるか、痴れ者め!」と怒鳴り返してやった。  雪加が渋々梯子を上ってみると、そこが自分の寝間であるかのように横柄な態度で寝そべっているアビがいた。 「お前もさっきは派手にやったな。王妃様のお美しいお顔が、真っ赤に腫れ上がってたじゃねぇか」  たった今、雪加が鴎花の顔をひっぱたいたことについて言っている。きっと舟で岸辺に戻った鴎花と顔を合わせてからここへ来たのだろう。  しかし妙である。 「面布で覆ったあやつの顔のことまで、そなたが何故知っておるのじゃ」 「決まってる、あの布きれをめくって痘痕面を覗いてやったからだよ。偽物の分際で散々好き勝手してくれてるんだから、それくらいはやり返してもいいだろ」  雪加にはよく分からなかったが、アビは鴎花に対して何かしらの不満を抱き、そして嫌がらせをすることで大いに留飲を下げたようだった。  それにしても、この男が日の高いうちに訊ねてくるとは珍しい事である。  いつもは人目を避けるべく、夜になってからこっそりと泳いでくるのだ。そして雪加を散々に愛でた後、暗いうちに戻っていく。  雪加に訝しげな目を向けられたアビは状況を説明した。  イスカは帰還後の三日間を休暇と決めてしまったから、その間、従者であるアビは暇になり、ずっと自室にいたそうだ。  そして今日からイスカは政務を再開することになったのだが、アビは全く気乗りしないので仮病を使った。しかし部屋でこれ以上寝ているのも暇だから、雪加に会いに来たのだという。 「仮病を使っておきながら、わざわざ目立つようにここへ来たというのかえ?」 「それで八哥に罰してもらえるなら本望だ。それにお前との仲を隠す必要もなくなったんだ。お前を嫁に欲しいと八哥にも言ってしまったからな」  鴎花からも聞いていた話だったが、この男から軽々しい口調で言われると余計に腹が立つ。雪加はむくれた顔でアビを睨みつけた。 「随分と勝手な話を進めてくれたようじゃな」 「何度も言うけど、俺はお前が嫌いなんだよ。だから、お前が一番嫌がるようなことをする」  嬉しいだろ、と笑いながら、アビは雪加を抱き寄せると、白磁の頬へと口を這わせてきた。  それは愛しくてたまらぬと言わんばかりの触れ方だったが、この男はこれを雪加を辱めるためにやっていることを雪加はよく理解している。  優しく扱われることで雪加が少しでも彼に靡けば、蛮族ごときに心を蕩かされるなんて翡翠姫も大したことないな、と嘲笑うことができるからだ。  その意図を分かっているから、雪加は絶対に隙を見せない。心を石のように固くして、この男の為すことに一切応じないよう、気持ちを常に引き締めている。  そればかりではない。この頃の雪加はアビに反撃することすら覚えていた。  腸を煮えくり返らせながらも、翡翠姫としての余裕たっぷりに微笑んだ雪加は、逆に男の首を抱き、彼の耳朶を甘噛みしてやったのだ。 「そなたもとんだ天邪鬼じゃな。そろそろ素直に申したら良かろう。妾を辱めんと抱いているうちに、心底恋しゅうてたまらなくなっただけなのじゃ、と」 「なんだと」 「その怒りっぷりこそ、図星である証拠じゃ。ほほほ、妾を貶めようとして、自らがその罠に嵌るとは実に愚かな事じゃな」
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