六章 疑念の先

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 雪加の言葉に、案の定アビはいきり立った。   「勝手なことを言うな。俺はお前を傷つけたいだけだ。お前のことなんて一寸たりとも好いちゃいない」 「そうじゃな。ではそういうことにしておいてやろう」  雪加が余裕を見せれば見せるほど、アビが苛立つことを知っている。 (……いい気味じゃ)  これまでこの男には散々な目に遭わされてきただけに、少しでも仕返しができて雪加は嬉しくてたまらない。  しかし少しからかわれたくらいでこんなにムキになってしまうなんて……まさか本当に図星なのではなかろうかと疑いたくなるではないか。  ……いや、雪加にそのように思わせることこそがこの男の狙いなのだろう、きっと。 「ちっ……なら、好いてないことを証明してやる。来い」  言葉を尽くしたところで自らの劣勢が覆らないことを悟ったアビは、急に何かを思い立ったようだった。雪加の手を引き、自分が乗ってきた舟へと乗せる。  そして連れて行った先は、なんと雪加がかつて住んでいた伽藍(ティエラ)宮だったのである。 ***  雪加はひどく驚いていた。  (ツェイ)皇后の寝室の床下に、地下への隠し通路があったことをアビに見せられたからだ。 「なんと……」  床板を剥がした先にあったその穴は人一人がようやく通れるくらいのものだった。側面は小さな石を組んで作られており、奥の方は真っ暗で何も見えないが、先まで道が続いているようだ。  ひんやりとした空気が立ちのぼって来て、水の流れる音が僅かに響いており、華やかな宮殿の雰囲気とは全く異質な空間だった。 「最近見つけたんだ」  アビは予め準備していた縄梯子を穴に向かって下ろしながら説明してくれた。 「皇后がどうやって脱出したのか気になっててさ。偶然ここが俺の居室として割り当てられたから、部屋の中を徹底的に探してみたってわけだ」 「母上様はここから……」 「そういうことだろうな。この先は水路になっている。伽藍宮の池の水の出口だ。あの池、長河から水を直接引いているし、泳いでみて分かったけど、池にしては水の流れがやたらと速い。どこへ水が流れ出ているんだろうかと思ったらここだったってわけだ」 「……」 「皇后陛下は恐れ多くも自分だけがお逃げあそばした後、置き去りにした女官に穴を塞がせたんだろ」  厭味ったらしいアビの言い方も耳に入らないほど、雪加は呆然としていた。  母はあの混乱の最中、自分だけが逃げていった。  娘である雪加のことを置き去りにして。  あの時、同じ屋敷の中にいたのに、ここしか脱出口は無かったのに……腹を痛めて産んだ娘のことを、頭の片隅にも考えてくれなかったのだろうか。 「お前も来いよ」  縄梯子を使って先に降りていたアビに呼ばれた。  暗くぽっかり空いた穴は恐ろしさしかなかったが、それでも雪加は恐る恐る足を入れてみた。  この先が後宮の外に繋がっているのなら、今後のためにも通っておくのは悪いことではない。  それにあの夜、母が通った道というものを見てみたい欲求もあった。  娘を残し、自分だけが逃げ出すのはどんな胸中であったのか……少しでも知りたいではないか。  雪加がアビに支えられながら、なんとか着地すると、彼は持って来た松明に火をつけた。  降りた先は階段になって、さらに下へと降りられるようだった。この階段に沿って水が流れているらしい。足下から響いてくる水の音はますます大きくなり、石造りの階段は一段下りるごとに、足音が辺りに反響して大きな音を立てた。  しかし、階段を降り切ってしまうと、そこは行き止まりだった。  代わりに目の前には貯水槽のような広い水の溜まり場が広がっていた。 「水路の行き着く先がここだ。ここには瑞鳳宮のあちこちからの排水も集められているみたいでさ。大雨の時はここに水を貯めて、水害を防ぐつもりなんだろ」  雪加達が立っているのは、その貯水槽の壁にあたる部分のようだ。  アビの言う通り、この辺りだけ天井が高く、大雨の時にはこの空間いっぱいに水を貯めることができるだろう。  真っ暗で奥の方は何も見えないが、水が勢いよく流れ落ちているような轟音が辺りに響いており、アビはその音に負けないよう、叫ぶようにして雪加に語った。 「行き止まりではないか」  雪加もまた、怒鳴るようにして声を上げた。  てっきりこのまま地上への道が繋がっていると思っていたのだ。しかしこの先には人が歩けるような足場が無い。 「いや、まだ続いている」  雪加の言葉を否定したアビは、松明を貯水槽の水面の方へと向けた。松ヤニを燃やした程度の弱い光では奥まで照らし出すことはできなかったが、その方向から水の落ちる音が聞こえてくる。 「この音の感じ……多分、水が落ちた先には空洞がある。そして方角を考えれば、木京(ムージン)の街の中のどこかへ繋がってる」
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