六章 疑念の先

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「ここに飛び込めと?! 無茶を言うでない」 「俺もやったことは無いんだ。でも皇后が本当にここを使って脱出したのか、お前も知りたいだろ。付き合え」  言うなり、アビは雪加の首筋めがけて手刀を振り下ろした。  その容赦ない一撃で雪加は意識を失い、次に目覚めたときには、まず一番に激しい息苦しさを覚えたのだった。  ゲホゲホと何度も激しく咳き込み、肺の中にまで入り込んだ水を吐き出す。  恐ろしく苦しかったその時間が終わり、なんとか呼吸が落ち着いてきた雪加が次に感じたのは、自分がずぶ濡れで、身体が冷え切っていること。水が流れ落ちる、轟音が周囲の石壁に反響して鳴り響いていること。辺りに光は全く無いが、ここには人が寝転がることのできるくらいの空間があり、すぐ側にはアビが座っているということ……。 「……ご苦労さん」  手探りで雪加の頭を撫でてきたアビもまたびしょ濡れだった。  この男、どうやら気を失った雪加を連れて水の中へ飛び込み、そして落ちた先で二人分の身体をここまで押し上げたようだ。 「これで例え泳げなくても、誰か介助してくれる奴がいれば、あの水の流れの中でも死なずにここまで来られるって証明できたぜ」 「な……っ?!」 「いやぁ、追い詰められていたとはいえ、あの真冬に水の中へ飛び込んだ皇后の度胸ってのは褒めてやらなきゃいけないよな」  アビは闇の中でケラケラと笑って見せたが、まさかそんなどうでもいい実証実験のために雪加の身を危険に晒したとは。  腹を立てた雪加はアビの胸の辺りを強く押して立ち退こうとしたのだが、何か強い力に遮られ、逆によろめいて彼の胸の中に倒れ込むことになってしまった。  あぁ悪ぃ悪ぃと笑った彼は、濡れた手で短剣を使い、互いの腰に結んでいた麻縄を切り落としてくれる。どうやら水の中で自分の両手が空くように、工夫していたらしい。 「意識があるままの奴は連れていけねぇんだよ。溺れる時は信じられない力でしがみついてくるだろ。それで二人とも溺れるのがオチだ。お前の水練の能力は知らねぇけど、あの池の真ん中から脱出しようとしないってことは、どうせ大したこと無いんだろ?」  アビが雪加の身体を抱き締めたまま言い訳する。  軽い口調のわりに彼の身体は小刻みに震えていて、それが寒さによるものだけではないことに雪加は気付いてしまった。 「……相変わらず無茶苦茶ばかりしおって。下手したら妾だけでなく、自分も死んでいたのだぞ」 「俺の命なんか惜しくも無い」  冷淡なことを口にしたアビは、雪加の手を掴んで立ち上がらせた。  立ち上がってみると、天井の方に一ヵ所だけ光が漏れているところがあり、その下に階段らしきものが見えた。  そしてその真下の空間へ手を伸ばしてみると、そこには上へ向かう階段のようなものがあったのだ。 「よし、これを登るぞ。濡れ鼠のままでいたくなけりゃついてこい」  闇の中からアビが命じてきた。  こんな男の言いなりになるのは、雪加にとってもちろん不本意なことである。しかし水には流れがあるので、ここから後宮へ戻ることは叶わない。  そう、これは仕方のない事である。  そうやって自分の心を宥めた雪加は、アビに示された地上への階段を、手探りでゆっくりと上り始めたのである。 ***  下から見えた光は、壁に埋め込まれた採光用の窓から漏れていたものだった。  その脇にはかがむとようやくくぐり抜けられるくらいの、跳ね上げ式の鉄の扉があった。  これがまた上手く設計されていて、内側から押せば開くが、外からは開かない。  この扉を潜り抜けた先は、民家と民家の隙間だった。一見すれば、どちらかの家の壁にしか見えないように作ってある。 「ここはやっぱり木京の中みたいだな。それも庶民が住んでいる街の辺りみたいだ」  這いつくばって表に出たアビは辺りを見回して言った。確かに家屋のつくりは粗末で、大勢の人が近くにいるような物音や話し声がいくつも聞こえてくる。煮炊きをするための煙も家の隙間から立ち上っており、風に乗って漂ってくる匂いの中には、気品というものがまるでない。
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