六章 疑念の先

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 準備の良いアビは麻縄や松明だけでなく小銭も持ってきていたようで、すぐ近くの民家に入って交渉し、二人分の着物を揃えてきた。 「こいつが間抜けで、そこの井戸に嵌ったんだよ。助け出すのにこっちまでずぶ濡れさ。参るよな」  怪しまれないようにするためだろう。頭の先から爪先まで濡らしている様を不審そうに眺めてくる華人に向かって、アビは雪加を指さしながら明るい口調で言い訳していた。  雪加はそんなアビを無言のまま見つめた。  彼が兄以外の人間に対し愛想良く振る舞っているのを見るのは初めてだったのだ。雪加に対しては暴君でしかないくせに、見知らぬ人に対してこんなに和やかで友好的な態度を取ることもできるのかと思うと、妙に悔しいような腹立たしいような気持ちになってきた。  こうして濡れた衣服を脱ぎ、なんとか町衆としての身なりを整えると、アビは街の雑踏の方へと歩き出した。 「ふぅ……さすがに疲れたな。なんか食っていこうぜ」  雪加の返事も聞かぬまま、彼は先へと進んでいく。  後宮で生まれ育った雪加には、ここが木京の街のどの辺りなのかもさっぱり分からなかったが、行きかう人の多さには圧倒されていた。  都で暮らす民草とは、こんなに大勢いるものなのか。  路傍に座る鼻を垂らした子供や大八車を引く男達、天秤棒を担いで何かを売り歩いている人もいれば、店を構えてその前に立って呼び込みをしている女もいる。  これだけ大勢の人が集まっていれば、どさくさに紛れてアビから逃げ出すことも可能なのではないだろうか。  そして雪加が「妾は翡翠姫じゃ。助けよ」と叫んだら……。  想像しかけて、すぐにやめた。  雪加の言葉にすぐさま納得してくれる者などいないだろう。高貴な姫君が町娘の格好をして歩いているのでは、信じろという方が間違っている。  そして華人達が戸惑っている間にアビがやってきて「悪ぃな。こいつは頭がイカレてんだよ。気にしないでくれ」と上手な華語でとりなすのがオチだ。  せっかく逃げ出す好機であるのに、雪加はアビの後をついていくしかない。  この男に振り回されている自分が悔しくてたまらないが、一方でこの男についていけばいいという安心感もどこかにあり、それはきっと初めての場所で慣れないから、誰でもいいから縋りつきたい気持ちなのだろう、と思う。  雪加がアビを頼りにするなど、ありえないことなのだから。  雑踏を歩くうちに、アビは湯気の立ちのぼる露店の前で立ち止まると、何かを注文した。買ってきたのは緑色をした包子で、両の掌で包み込むくらいの大きなものだった。 「翡翠饅っていうんだ。生地に菜っ葉を練り込んでるから翡翠色なんだよな。最近、木京で流行りらしいぜ」  道の端へと移動したアビは、その翡翠饅とやらを半分にちぎり、雪加の手に載せた。  中に入った肉の餡が露になった包子からは、湯気と芳香が立ち昇り、これを雪加はしげしげと眺めた。  この男は椅子も机も無いところで食事をしろと言うのだろうか。  そんなはしたない真似を高貴な翡翠姫に強要するとは、やはり蛮族の考えることはおかしい。  しかし彼は美味しそうな顔をして半分になった包子を頬張るのだ。 「翡翠姫が翡翠饅を食ってる絵面なんて笑えるだろ」 「くだらぬ。そんな駄洒落のために妾を連れてきたのかえ」  文句を言った時に、雪加の腹が鳴った。  そう言えばあまりにひどい目に遭ったおかげで忘れていたが、ひどく腹が減っていたのだ。  その食欲を美味しそうな湯気で呼び覚まされてしまったらしい。  赤面する雪加を笑い飛ばしたアビは「四の五の言わず、とにかく食え」と言って雪加の手を掴み、包子を口の中へ強引にねじ込んできだ。
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