六章 疑念の先

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二.  アビもさすがにこの展開は予想していなかった。  この時の雪加(シュエジャ)は美しい顔を惜しげもなく晒していたが、一度ずぶ濡れになったおかげで化粧も落ちているし、町娘と変わらぬ格好をしていたのだ。まさかその正体を見抜いてくる人物がいると思うはずがない。  だが彼は雪加の許婚であるため、元々彼女の素顔を知っていたらしい。そして高貴なお姫様が往来で立ったまま包子(パオズ)を食べていることに驚きすぎて、うっかり声をかけてしまったそうだ。  そして彼は傍らにアビがいることに最初、まるで気付いていなかった。  だからこそふらふらと雪加に近づいてきて、そのままアビにあっさりと捕まってしまったのだ。 「なんだ、お前は?」 「うわ……?!」  自分の腕を掴んでいるのが、褐色の肌をした青年だと気付いた広鸛(グゥンガン)は慌てて逃げ出そうとしたが、もちろんそんなことをアビが許すわけが無い。  とりあえずここでは目立ちすぎると判断したアビは、男の腕を掴んだまま細い脇道へ入り込んだ。  路地の先には五重塔が見える。近くに天帝(ティェンディ)を祀った寺があるのだ。この辺りには来たことがあるな、と周囲の景色と自分の記憶を擦り合わせつつ、アビは民家の壁際に広鸛を座らせた。そしてその手を後ろで結ぶ。 「お前、雪加の許婚とか言ってたな?」 「いや、それは……」  あまりの急展開に、男は思考が追いついていないらしい。誤魔化すべきか認めるべきかも決めかねている様子だ。  状況がよく分かっていないのはお互いさして変わらないが、捕らえられた方と捕らえた方でその心境は雲泥の差だ。  アビは改めて広鸛を見下ろした。  生やし放題の髭と薄汚い身なりで隠しているが、年齢は三十代前半くらいでまだ若く、肌が抜けるように白い。そして先程から異様な汗をかき続け、アビと視線を合わせない。  その傍らに立つ雪加は、そんな許婚の変わり果てた姿に衝撃を受けた様子だった。捕らえられるきっかけを雪加自身が作ってしまったことに対しても、動揺しているようだ。 「(ズイ)といえば、確か鵠国(フーグォ)では名だたる大貴族様だな。しかも武を司る家柄……そうか、嘴広鸛。思い出した。羽林軍(ユーリンジュ)の総都督じゃないか」 「……」 「お尋ね者の戦犯がこんなところにいるとは驚いたぜ。何やってんだ?」  雪加の表情を見ていればこれが本物の嘴広鸛であろうことは疑いようがないが、この男はこんな街中で一体何をしているのか。  両手を後ろで縛られた広鸛は、正体が露見したことで誤魔化し切るという手を捨てたらしい。  ガタガタ震えつつも、許嫁の手前、虚勢を張って答えた。   「わ、我は来たるべき鵠国の再興に備え、この木京に潜伏していたのだ。鵠国再興の鍵は我にあり。蛮族どもよ。我の策略の前にはうぬらの蛮勇など取るに足らぬものであるとすぐに悟ることになるであろう。うぬらの血が長河を赤く染め、悲嘆の声が地を覆いつくす前に、この都から出て行き、荒涼たる蛮土へ戻るが良いぞ」 「……嘘をつくなよ。要するにお前は、年始の変での敗戦の責任を取らされるのが怖くて、表に出られなかっただけだろ。だから南に走ることもできず、震えて隠れていたんだ」  アビの指摘のとおりである。  広鸛は年始の変の数日前、北方の守備隊から鴉威の反乱の知らせを受けていた。  本来ならすぐさまこれを燕宗(イェンゾン)に報告し、木京の備えを厚くすればよかったのだ。  しかし広鸛はどうしても武勲を立てたかった。  平和が続いていた鵠国で、武官が認められるのは難しい。  強い敵を打ち破る。それも華麗に。  広鸛は皇族の末端に名を連ねながらも、あくまで傍流であり、出世など望めぬ身であった。  それが達者な口先と美男子ぶりだけで(ツェイ)皇后に気に入られてここまで昇進し、有力貴族の嘴家へ養子に入り、更には皇女を娶ることも許されたのだ。広鸛はこの上に確かな実績をどうしても加えたかったから駆けてきて疲れ果てているはずの蛮族達は、その圧倒的な機動力を生かして広鸛の本陣を急襲。驚いた広鸛は味方の兵士を残したまま、戦場から逃げ出した。
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