一章 翡翠の姫

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一章 翡翠の姫

一.  天暦(ティェンリー)298年冬。  中原を治める大国、鵠国(フーグォ)は滅亡の危機に瀕していた。  北の果て、辺境の地で暮らす遊牧民、鴉夷(ヤーウィ)の民が突如として反旗を翻し、木京(ムージン)の都へと攻め込んできたのだ。  草原で暮らし、馬を巧みに操る彼らは少数ながら、俊敏にして苛烈。永き平和に慣らされ愚鈍な反応しかできない鵠国の守備兵を一気に蹴散らすと、その勢いのまま皇帝の鎮座する瑞鳳(ルイフォ)宮へとなだれ込んだのだった。    鵠国の命運がまさに尽きようとしていたこの夜、鴎花(オウファ)伽藍(ティエラ)宮の中にいた。  瑞鳳宮は五千を超える文官武官らが政務を行う表宮と、皇帝とその妻子らが住まう後宮とに大きく分かれているが、その後宮にあって一番豪華なのが皇后の暮らす伽藍宮である。  この宮殿には舟遊びをできるほどの広い池を備えた庭園があり、内部は壁や柱の細部に至るまで金箔や螺鈿(らでん)細工で美しく飾り立ててあった。その豪華さたるや、この世を統べる天の神、天帝(ティェンディ)をも嫉妬させるほどだと称賛されてきたものだ。  しかし北方の蛮族達は、この華麗な宮殿さえも、泥のついた馬蹄で無残に踏み荒らした。  広大な伽藍宮の中でも最も奥まった部屋にいた鴎花だが、今や耳に飛び込んでくるのは女達の甲高い悲鳴や荒っぽい足音、馬の(いなな)く声、それにどこかで何かを壊すすさまじい轟音ばかりだ。  闇の中から響いてくるそれらは、目に見えないだけに恐怖感を倍増させ、鴎花は生きた心地がしなかった。  それでも鴎花は居室に御簾(みす)をおろし、燭台に明かりを灯して、朱塗りの椅子にじっと座っている。  逃げることはもう諦めた。  真夜中にけたたましい悲鳴と騒ぎ声で起こされ、驚いて廊下へ飛び出たときには、もう黒衣を着込んだ鴉夷の兵士達が伽藍宮を取り囲む生け垣の内側まで入り込んでいたのだ。事がここまで進んでしまっているのなら、下手に動き回るよりも潔く振る舞うべきであろう。  しかし蛮族達がどうして後宮にまで入り込んでいるのか……鴎花には状況がさっぱり分からなかった。  そもそも北の大地に暮らす彼らが挙兵したらしい、という話を聞いたのが僅か五日前のことだったのだ。千里(約400km)も離れた土地からたった数日で都へ? 空でも飛んできたとしか思えない。  しかし鴎花が理解しようがしまいが、彼らは現実に今、後宮に踏み込んでいた。  御簾の向こうでは、女達が悲鳴を上げながら闇の中を逃げ惑っているのが分かる。か弱い彼女らが捕まれば、身ぐるみを剥がされ、犯され、そして殺されるに違いない。  悲惨な状況下にある彼女らを助けたい気持ちはあったが、鴎花自身も武器を持たない無力な女の身であり、どうにもならない。  しかしいかに無力であろうとも、今の鴎花にはどうしても果たさねばならない使命が二つあった。  それが鴎花の夜着の裾の辺りでガタガタ震えている娘と、大国の姫としての矜持を守り抜くこと。 (……これだけは命を()してでも……)  血の気の引いた顔をした鴎花が、膝に爪を立てて決意を新たにした時だった。  複数の男達の荒い足音が近づいてきたと思った次の瞬間、下ろしてあった御簾が力任せに引きちぎられたのだ。 「!!」
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