一緒にいようよ

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一緒にいようよ

―――ねぇ、お母さん。どうして私の名前は‘はなの’じゃなくて‘かの’って読むの? ―――お父さんが考えたんだよ。お母さんの名前、知ってる? ―――‘藤井千佳’ ―――正解。産まれてくる子が女の子だったら、‘千佳’から読み方を一文字使おうって。 ―――じゃあ私が男の子だったら? ―――お父さんの名前の‘涼也’から、一文字使った名前になっていたんだろうね。 ―――そっか。‘花乃’の‘か’は、‘千佳’の‘か’なんだね。 ―――そう。お父さん、たくさん考えて‘花乃’って名前をつけたんだよ。  おばあちゃん家からの帰り道、いつかお母さんとした会話をふと思い出した。  お母さんの病気が、お母さんを長生きさせてくれないことはずっと前から分かっていた。だんだんお母さんの体調が悪くなっていくのも、この目で見ていた。お母さんは、自分の病気の状態を隠さず私に話してくれていた。だから、心の準備は出来ていたはずなんだ。 ―――花乃。 まだはっきりと思い出せるお母さんの声と顔。悲しい。いつだって、まだ悲しい。いつか忘れて、悲しいとも思わなくなる日が来るのだろうか。こぼれそうになった涙を拭う。こんな誰が通るかも分からない道の真ん中で泣くわけにはいかない。 「ただいま。」 家の中は暖かい。縮こまっていた背筋が伸びていくのが分かる。 「おかえり、花乃ちゃん。」 リビングから畳んだ洗濯物を持って出てきたしーちゃんが、にこやかに手を振る。 「洗濯物落ちちゃうよ、ちゃんと両手で持たないと。」 「大丈夫、大丈夫。」 笑って、しーちゃんは私の横を通り抜けて二階へ向かう。お気に入りのダサいジャージ姿で階段を上っていくしーちゃんは、何も聞かない。私がおばあちゃん家で何を言われたのか。おばあちゃん達がしーちゃんのことをなんて言っていたのか。しーちゃんは何も聞かない。でもたぶん分かっているのだと思う。 ―――花乃ちゃん、おばあちゃん達と暮らさない? そう言われることはなんとなく分かっていた。 ―――しおりさんとあなたは、血の繋がりもない他人なの。 そんなこと言われなくても知っていた。しーちゃんはお母さんの友達なのだから。 ―――千佳がいなくなった今、あなたとしおりさんが一緒に暮らす必要なんてないのよ。 こうなることはなんとなく分かっていたけれど、いざそういう言葉を浴びせられると、目の前が暗くなっていくようだった。 ―――もう、彼女のことを自由にしてあげなさい。 自由ってなんだ? しーちゃんの自由は、私がいないこと?  私の家族はずっと、お母さんとしーちゃんだった。死んでしまったお父さんや、おじいちゃんおばあちゃん、蒼太くんと百々子先生も家族であることは分かっている。でも、お母さんとしーちゃんは特別で、私を育ててくれたのはお母さんとしーちゃんだけ。血の繋がりとか、そんなこと関係ないと思っていた。なのにおばあちゃんは言う。しーちゃんを自由にしてあげなさい、と。  しーちゃんは、私のことを好きでいてくれていると思う。なのに、おばあちゃんの言葉で私の心はグラグラ揺れる。でもしーちゃんには言えない。私がこの心の中のモヤモヤを話してしまえば、しーちゃんは私といることを選ぶに決まっている。その選択は、しーちゃんの人生の自由を奪うことになるかもしれない。私は、どうしたら良いのか分からない。 「花乃ちゃん、明日は私ちょっと帰り遅くなっちゃうかも。」 夕飯を食べながらしーちゃんが言う。 「分かったよ。夕飯、何か作ろうか?」 「ううん、今日のうちに作り溜めしといたから大丈夫。冷蔵庫の中に鍋ごと肉じゃがが入ってる。お腹空いたら先食べてて良いからね。」 「うん、分かった。」 しーちゃんの作るご飯は、お母さんのご飯と同じ味がする。少し甘めで、とてもおいしい。 「しーちゃん、」 「うん?」 「いつも、ありがとう。」 しーちゃんは目を丸くする。 「どうしたの、急に。」 「なんとなく、言いたくなっただけ。」 この関係は普通じゃない。当たり前じゃない。そう思ったら、言わずにはいられなかった。 「じゃあ戸締まりよろしくね。」 いつも朝はしーちゃんが先に家を出て行く。駐車場から車が出て行く音を聞きながら、私も支度をする。  お母さんの病気が分かって少し経った頃、しーちゃんは夜勤のあった仕事を辞めて、昼間に働き夜は家にいるようになった。準備だったのだと思う。やがてお母さんが入院したり、いなくなったりしてしまう時に、私を一人にしないための準備。幼いながらにそれが分かったから、私はしーちゃんが仕事を変えたことに対して何も言わなかった。 ‘ピンポーン’ インターフォンが鳴る。時計を確認して、小さく溜息が出た。急いでリュックを背負い玄関に向かう。 「だから、毎日迎えに来なくても良いって言ってるでしょ。」 玄関を開け、そこに立っている大河に向かって言う。キンとした空気の中、吐く息が白い。 「通り道なんだから一緒に行けば良いだろ。」 学ランのポケットに手を突っ込んだ大河がムッとした顔で言う。 「じゃあせめてもう少しゆっくり来てよ。日に日に早くなってるじゃない。」 「俺ん家の時計ではいつも同じ時間に出発してるんだけど。」 「···じゃあ今度おばさんに言っとく。時計ちょっと遅らせといてって。」  友利大河(ともりたいが)は近所に住んでいる幼馴染。うちと同じような間取りの一軒家に、優しいお父さんと美人で気さくなお母さんと妹の美空(みく)ちゃんと四人で暮らしている、ちょっとお節介な男子だ。他にも友達がたくさんいるのに、こうやって私に構う。私だって大河の他に友達はいるし、一人で登下校することを寂しいとも思わない。でもいつも大河は私のそばにいて、決して一人にしようとしない。それは、お母さんがいなくなってからより顕著になった。大河の優しさを、私は邪魔者のように扱う。それでも大河がそばにいてくれることを私は知っている。たぶん、甘えているのだ。離れていかない大河に、私はずっと甘えている。 「今度の日曜日さ、うち来いよ。かずくんから蟹が届くから、花乃としおりちゃんも一緒においでって母さんが言ってた。」 ‘かずくん’は大河のお父さんのお兄さん。大河の伯父さんだ。大河の家は親戚も揃って仲が良い。それこそ親戚でもない私達までこうやって招いてくれる。 「ごめん、日曜日はダメだ。」 蟹が一瞬頭をよぎったけれど、その日はダメだ。出来ることなら蟹に逃げてしまいたいけれど。 「何かあるの?」 大河に聞かれて、私は目を伏せる。楽しい予定ならどれほど良かったか。 「おばあちゃんが、うちに来るの。」 大河の目が丸くなる。 「え、ばあちゃんっておばさんの方のばあちゃんだよな?」 黙って頷く。大河は知っている。おばあちゃんが、うちに来たことがないことを。その理由も含めて。 「しーちゃんと、話をするために来るんだと思う。」 おばあちゃんは、しーちゃんに会わない。それに気付いたのは、お母さんが病気になってから。それまでもなんとなく違和感はあった。お母さんと一緒におばあちゃん家に遊びに行く時、しーちゃんは絶対について行かない。おばあちゃんに、‘遊びに来てね’と言っても絶対に来てくれない。おばあちゃんの前でしーちゃんの話をすると空気が変わる。お母さんは、おばあちゃんの前でしーちゃんの話をしない。子どもでも気付くその違和感の正体は、昨日おばあちゃんが言っていたことがすべてを表しているのだと思う。 ―――血の繋がりもない他人なの。 おばあちゃんの中で、しーちゃんは他人なのだ。十年間お母さんと私と一緒にこの家で暮らしてきたのに、しーちゃんは他人。薄々気付いてはいたけれど、実際言葉にされると心が痛かった。 「昨日、おばあちゃんに言われたの。」 大河は黙って聞いている。 「お母さんがいなくなった今、私としーちゃんが一緒に暮らす必要はないって。だからおばあちゃんちで一緒に暮らそうって。」 おばあちゃんの言っていることが全く理解出来ないわけじゃない。 「本当は、お父さんが死んじゃった時にそうしたかったのよって。」 「それで、花乃はなんて答えたの?」 大河の質問に私は俯く。 「···すぐには決められない、って言った。」 「嫌だって言わなかったのか?」 小さく頷く。 「しおりちゃんと離れて、ばあちゃん家に住むことになっても良いのか?」 少し責めるように言う大河。私はただ首を横に振る。 「おばあちゃんが言ったの。」 「何を?」 「···‘もう、彼女のことを自由にしてあげなさい’って。」 大河が黙る。 「私は、しーちゃんが本当はどう思っているのか分からないから。」 その‘自由’という言葉を聞く前なら、私はしーちゃんと暮らしたいとおばあちゃんに言えただろう。だってしーちゃんは家族だから。でもしーちゃんは他人で、私がいると自由じゃない。おばあちゃんはそう言う。怖くなった。しーちゃんが本当は、おばあちゃんの言ったように思っていたらどうしよう。そう考えたら、一緒にいたいなんて簡単には言えない。
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