明日、なに食べる?

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明日、なに食べる?

『今度そっちに行こうと思うんだけど、会えるかな』  あの街から随分離れたこの場所で、ふと思い出した。本当に久しぶりに。とても大好きだった人。あれは私の、遅い初恋だった。  彼との別れはとてもあっけなかった。険悪な雰囲気にもならず、私はただ彼の言葉を受け入れて笑って別れた。たぶん泣いて縋る程、私も彼に執着があったわけではなかったのだと思う。悲しい気持ちはもちろんあったけれど、泣いたらかっこ悪い、そう思える程度には理性を保てていた。私の人生における彼は、1つの通過点。彼がいなくたって私は大丈夫。でも、彼と過ごしたあの日々はとても楽しかった。  テーブルに置いたスマートフォンが短く振動する。 『久しぶり』 開いた画面にはたった四文字。胸の奥がきゅっと掴まれたようだった。文字を打つ指が、少しだけ震える。 『本当に久しぶり 8年ぶりかな』 『どうしたの?』 すぐに既読になって返信が来る。 『友だちと、昔の話をしてたら懐かしくなって』 『そっか 今は家?』 『うん』 『夕飯食べた?』 『食べたよ』  小さな、嘘をつく。目の前のテーブルには、買ってきたコンビニのおにぎりが置いたままになっていた。 『夕飯なに?』 『おにぎりだよ ツナマヨの』 『ツナマヨいいね 昆布が一番だけど』 『変わらないね』 『そっちこそ』 あの頃と変わらない。私も、そういう所は変わっていない。 『もう夕飯食べた?』 『まだ ラーメンが食べたい』 『豚骨?』 『そう こってりしたやつ でも昨日作ったカレーがある』 『カレーも好きだったよね』 『ラーメンとカレーと唐揚げ最強』 『太るよ』  画面を見て思わず口元が緩む。付き合っていた頃と同じことを言っている。それが妙に懐かしくて、鼻の奥がツンとした。  藤井くんのことは、高校三年生で初めて同じクラスになるまではぼんやりとその存在を知っていただけだった。背が高くて細見で、バスケ部に入っている人。背の高さは目立っていたけれど、飛び抜けてかっこいいわけではない。バスケはとても上手いらしいけれど、女子から人気があるというような話も聞いたことがない。でも悪い噂も聞かない。そんな人だった。  同じクラスになっても話す機会はなく、事務的な会話を数回しただけだった。挨拶すらほぼしなかったと思う。その原因は、藤井くんにある。  藤井くんはいつも男子としか話をしない。男子といる時は、明るくて少しふざけるようなこともするけれど、女子と接する時は途端に静かに大人しくなってしまう。それはもう幼い頃からずっと変わらないらしく、そんな藤井くんを誰も笑ったりもからかったりもしない。  唯一、藤井くんと普通に会話していた女子は千佳(ちか)ちゃんだけ。千佳ちゃんは藤井くんの幼馴染で、女子バスケ部に入っている髪の短いボーイッシュな女の子。私は二年生で同じクラスになって、一緒に過ごすようになった。三年生ではまたクラスが分かれてしまったけれど、顔を合わせる度によく話をしていた。さっぱりとした性格の彼女は、それまで私が過ごしてきた友だちとはどこか違っていて居心地が良かった。  夏休み明け。夏休みの補講でクラスメイトは皆顔を合わせていたから、新学期という感じはしない。受験の色に染まりつつある雰囲気の中で、文化祭の準備も始まった。  席替えをしてから、背の高い藤井くんは授業中私の視界の中にいつもいた。板書を必死にノートに写している背中。現国の時間になるとゆっくり上下する頭。隣の席の男子と喋っている時の楽しそうな顔。毎日視界に入るその笑顔はとても無邪気で、眩しかった。かっこいいわけではない。でも目が離せない。家に帰ってからも、焼き付いたその光景が何度も頭に浮かぶ。気付いたら藤井くんの姿を目で追い、藤井くんのことばかりを考えるようになっていた。いつかあの笑顔を私にも向けて欲しい。そんな事を思うようになったのは、文化祭が終わった頃だった。 『今日はラーメン食べた』  昨夜と同じくらいの時間。「おやすみ」も言わずに途切れたメッセージが、当たり前のように届いた。 『豚骨?』 『当然』 『当然なんだ』 『夕飯何だった?これから?』 『うん 今コンビニ 何食べよう』 『おつかれ プリンは?』 『ごはんじゃないよ』 『プリン好きって言ってたじゃん』 『そうだけどさ』 『プリンの話してたら食べたくなった』  帰宅途中のコンビニで、おにぎりコーナーの前をうろつきながら携帯電話を触る。緩みそうになる口元を手で隠しながらデザートコーナーへ移動した。  文化祭が終われば三年生は受験一色。授業後、暗くなるまで教室で自習をしている生徒がたくさんいた。私も藤井くんもその中の一人で、紙がめくられる音とシャーペンを動かす音が響くだけの教室で長い時間一緒に過ごした。多い時にはクラスの三分の一程、少ない時は四人程。そこに私と藤井くんはいつもいたけれど、やっぱり話すことは無かった。話してみたいな、と何度も思った。数学が得意らしい藤井くんに、この問題教えて、と聞けるチャンスは毎日あったと思う。でも私は、その背中や横顔を見つめるだけ。  二学期の終わり頃、藤井くんが同じクラスの男子と話しているのを聞いて、志望校も志望学部も私とは全く違うことを知った。そもそも私達の間に何か共通点があるのかどうかも分からない程、私は藤井くんのことを何も知らなかった。それでも笑っている顔が見たくて、その後ろ姿が気になって、ほんの少しでも近付きたいと思った。  センター試験が終わり、私立大学の入試が始まると登校するクラスメイトは毎日バラバラ。藤井くんと欠席日が被らなかったことで、滑り止めさえ同じ大学を受けていないことを知った。  後に迫る国公立大学の入試に向けて、毎日教室に残って勉強をした。教室に残って自習をする人数も徐々に少なくなっていった。  そしてあの日、教室には私と藤井くんの二人だけだった。 ―――古典って得意? 静寂を破ったのは藤井くん。話しかけられたのは初めてで、私は裏返った声で返事をした。私の前の席に座り、体ごとこちらを向く。初めての二人きり。初めての会話。初めての距離感。真っ直ぐ顔を見ることは出来なくて、シャーペンを持つ手が震えた。それに気付かれないように、出来る限り普通に会話をした。 ―――ありがとう。助かった。  ずっと見たかった笑顔、ではなかった。少しはにかんだだけ。でも私だけに笑ってくれた。古典が得意だったことをこれ程嬉しいと思ったことはない。  第一志望の大学に受かった。藤井くんの進路は分からないまま卒業式の日を迎えた。あの日、一度二人で話をしただけでそれからは挨拶すら出来なかった。ただ、その背中を見つめるだけ。  卒業式の日、どうしてもこのまま終わりたくなくて藤井くんの元へ駆け寄った。 ―――写真、一緒に撮りたいんだけど、ダメかな。 クラスメイトが卒業アルバムに寄せ書きをしたり写真を取り合ったりしている中で、仲の良い男子と一緒にいた藤井くんだけに向かって私はそう言った。驚いた顔をしたのは藤井くんだけじゃない。この一年間で、私と藤井くんが喋っている所を見た人はもしかしたら誰一人いないかもしれない。 ―――俺? 私は浅くゆっくり頷いた。状況的にはもう告白しているようなものだったと思う。でも藤井くんと写真を撮ることなんて、きっとこの先二度と出来ない。周囲の視線は気になるし、昨日額に出来た大きなニキビも受験勉強中に少し太った丸顔も気になったけれど、この最初で最後の機会を逃したくはなかった。 ―――写真、出来たら見せて。 藤井くんのこの言葉が無ければ、私達は始まらなかったと思う。  写真をすぐに現像して、千佳ちゃんに教えて貰ったアドレスにメールを送った。あの時はまだ今のように既読になったかどうか分からなかったから、返信が来るまで何度も携帯電話を確認した。何も返信が無いことを確認して、送ったメールに変な所が無かったか何度も何度も見返した。返信が来るまでの十五分間はとても長かった。  学校ではない所で、制服ではない格好をした藤井くんを前にした時はドキドキし過ぎて胸が苦しかった。写真を渡して、お礼を言われて、一瞬目が合って、すぐに逸らした。 ―――分かっているかもしれないけど。私、藤井くんのことが好き。 ―――ありがとう。 藤井くんは別に私のことを好きではない。それくらい分かっていた。 ―――藤井くんのこと正直何も知らないけど、でもこのまま終わりたくない。 何も知らないのに「好き」だなんて、自分でも何を言っているのだろうと思う。当然藤井くんも意味が分からないだろう。でもこの気持ちは、ちゃんと「好き」で合っていると思った。姿を見つけると嬉しくて、笑顔が見たくて、それを私に向けて欲しくて、なのに目が合うと恥ずかしくて。もう同じ教室に通う事がない藤井くんが、明日からも私の世界の一部であって欲しいと思う。藤井くんと私の間に積み重ねた物は何もない。でも積み重ねていきたい。何もない所から、一緒に。 ―――付き合ってくれないかな。 ―――いいよ。 『電車通勤なの?』 『そう 行きも帰りも満員だよ』 『大学時代を思い出すね』 『片道一時間以上かけてよく通ったよね』  満員電車に揺られて、毎日同じ目的地へと向かう。毎日同じ時間に、同じ扉から電車に乗る。見知らぬ人達の体や腕の隙間から見える景色も変わらない。毎日、何も変わらない。何も変わらないはずなのに、電車に乗るたびに私の心は削られて行くような気がする。  大学へは、実家から毎日一時間半以上掛けて通っていた。藤井くんも同じ方面行きの電車に乗るけれど、途中で私は違う路線に乗り換える。全く別の方向へ藤井くんは一時間程掛けて大学に通っていた。  大学入学までの春休みの間は、わりとまめにメッセージを送り合い、会うこともあった。メッセージでは普通に会話が出来るようになっても、いざ顔を合わせるとお互いに初対面のようにたどたどしい。藤井くんは私より顕著で、会話は途切れ途切れになるし目が合うと困ったように俯いた。教室で藤井くんが女子と話す時はいつもこんなふうだった。これが藤井くんの‘女子への態度’。名ばかりの彼女に昇格したとはいえ、藤井くんの心は全然開いていない。まあそれは分かっていたことなのだけれど。  大学に入ると、元々男友達がたくさんいた藤井くんはすぐに学科内やサークルで新しい男友達をたくさん作った。それはもう毎日生き生きとしていた。平日はまるで会えず、週末も毎週会えるわけではない。メッセージだけは必ず送ってくれるし、その中では砕けた言葉でどんどん仲良くなっているような気がした。でも、それ以上の距離の詰め方が分からなかった。  次にいつ会えるのか、尋ねるのは必ず私だった。それが少しだけ寂しくて、でも言葉にするのは違う気がした。大学の前期のカリキュラムはお互い時間が全く合わなくて、平日に会うことは無かった。でも後期に入ってしばらくした時、藤井くんが言った。 ―――帰りの時間が同じくらいの日があるなら、一緒に帰ろう。乗り換えの駅で待っているから。 嬉しかった。一緒に帰れるかもしれないことより、藤井くんから私に会おうとしてくれていることが何より嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、月曜日から順に帰宅時間を照らし合わせていったけれど、お互いのバイトの予定もあって前期と同様に会えそうな日は無かった。落ち込む私に藤井くんは「大袈裟だ」と笑った。そんなことはない。もしあの時週に一日だけでも一緒に帰ることが出来ていたら、私達はもっと長く一緒にいられたのかもしれないのに。 『今日、夏祭りらしい』 『もうそんな時期なんだね』 『近所で花火大会とかある?』 『わかんない 就職してからお祭りなんて行ってない』 『そっか こっちは今花火の音が聞こえる』 『家から見えるの?』 『音だけだよ』  藤井くんとは一度だけ夏祭りに行った。毎年行われる地元の花火大会だった。大きな川から打ち上げられる花火を、両岸にびっしりと並んだ人混みの中で見上げる。友達と行く夏祭りは、普段着で少しだけ化粧をして、「暑い」とか「人多すぎ」とか文句を言いながらバカみたいな話をして時間が過ぎていく。藤井くんと行ったあのたった一度の夏祭りは、浴衣を着て、慣れない下駄を履いて、途切れ途切れの会話にずっと緊張していた。手を繋いだのも、この時が最初で最後だった。もちろん藤井くんは、いつも通りたどたどしかったし、浴衣に対する感想なんかもまるでなかった。藤井くんに見てほしくて、藤井くんに可愛いと思ってほしくて選んだ浴衣だった。編み込んだ髪にも、普段より頑張って化粧をした顔にも、藤井くんは気付いていなかったのだろうと思う。 『ベビーカステラもうまいよね』 『お祭りで買ったことないかも』 『今度食べてみなよ』  ここ数日こうやってくだらないメッセージのやり取りをしていて、藤井くんがとても甘党だったことを知った。  思い返せば甘い物をよく食べていたような気もする。購買で買ったイチゴ牛乳を持った制服姿の藤井くんが浮かぶ。付き合っている時のお互いの誕生日ケーキも、藤井くんは美味しそうに食べていたと思う。あの瞬間は、次の誕生日もその次の誕生日も一緒に過ごせるのだろうと当然のように思っていた。藤井くんの心が不在だとしても、いつか離れてしまうなんて思わなかった。···いや、違う。考えないようにしていただけかもしれない。  付き合っている時もメールでいろいろな話をしたつもりだったけれど、知らないことの方が多いまま。それはそうだろう。私が藤井くんの彼女だったのは、ほんの一年程だったのだから。  大学二年生になってすぐの頃だった。 ―――次、いつ会える? そう尋ねた私に、藤井くんは少し困った顔をした。長かったはずの春休みは、ほとんど会えなかった。お互いバイトもあったし、藤井くんはサークルや友達との旅行で忙しそうだったから。 ―――別れようか 前兆はあったような気もしていたけれど、気付かないふりをしていた。でも、分かっていた。元々藤井くんは女子が苦手で、男友達とはしゃいで遊んでいる時が一番キラキラしていた。私といる時の藤井くんは、少し困ったように笑う。ちゃんと分かっていた。見て見ぬふりをしていただけ。  それでも、我儘を言ったことは無かったと思う。友達より私を優先して欲しい、何度もそう思ったけれど口にはしなかった。困らせるようなことも言わないようにしていた。  藤井くんは優しかった。たくさん笑ってくれた。でもやっぱり、藤井くんの中で‘彼女である私’は一度だって一番にはなれなかった。 ―――分かった。今までありがとう。 だからせめて、笑った顔で終わろうと思った。藤井くんの中で、私との一年がほんの少しでも綺麗な思い出として残ってくれたら良いと思った。 ―――ごめんね。 大丈夫。私だって、藤井くんがいなくても楽しく生きていける。 きっとすぐに忘れられる。  帰宅したての部屋は、まるでサウナのようだった。電気もエアコンもつけず、窓さえ開けずにいる蒸し暑い暗闇は、何をする気力も奪っていく。水分を摂ることさえ面倒だった。 『今日はビールがうまい』 光る画面に映し出された文字と、藤井くんの名前。 『おじさんみたい』 返信すると、すぐに既読になった。 『ビール飲まないの?』 『お酒あんまり強くない ビールは苦いから嫌い』 『お子様』 『うるさいなー』  大人になる前に別れた藤井くんとは、一度も一緒にお酒を飲んだことがない。高校三年生の時のクラスはわりと皆仲が良くて、卒業してからも年に数回誰かが幹事となってクラス会が開かれていた。私は藤井くんと別れて以降、一度も行っていない。  クラス会の終わりに撮られた参加者の集合写真が送られて来て、何ヶ月も何年も見ていない藤井くんの姿をいつも目に焼き付けた。その度に、まだ好きなのだろうかと自分に問い掛ける。でもたぶん違う。数日後には、藤井くんのことなんてすっかり忘れてしまうのだから。  ふと思い出したり、長い間一瞬も思い出さなかったり。私の中で藤井くんの存在は確実に薄れていっていた。新しい恋もして、就職もして、一人暮らしも始めた。充実していると思い込んで、過去を顧みる余裕も無くなった。そして、倒れるように眠った先の夢に、時々藤井くんは現れた。 ―――ありがとう。 古典を教えたあの日の顔と、 ―――ごめんね。 もう二度と会えなくなったあの日の顔。  
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