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蒼太さんは時々仕事で出張に行ってしまう。一日、二日で帰ってくる時もあれば、今回のように一ヶ月程長期で不在の時もある。一緒にごはんを食べる時にふと、次の出張の予定を聞かされる。それが翌日の予定のこともある。
蒼太さんがここにいない間、私達は連絡を取り合うことはない。連絡先はもちろん知っているけれど、私達は恋人ではないし、たぶん友達でもない。会えない間の寂しさを埋めるために連絡を取ることを許された関係ではないのだ。
蒼太さんが帰って来る日だけは、今朝のように連絡をくれる。その時初めて、私は蒼太さんが帰って来る日を知る。忙殺される日々の中で、私は何度も蒼太さんのことを考える。蒼太さんのことを考えている時間を仕事に費やせたらなら、残業時間をもっと短縮できそうな程に。
「ごちそうさまでした。カレーとってもおいしかったです。」
蒼太さんは料理が上手だ。初めて作るものでもレシピさえあれば簡単においしいごはんを作ってしまう。器用な人なのだと思う。
「前に百々が作ったキーマカレーもおいしかったよな。あれまた作ってよ。」
食器を片付け終えた蒼太さんが、温かいお茶を持ってきてくれた。
「分かりました。明日で良いですか?」
ふざけてそう答えると蒼太さんは笑う。
「明日はカレーじゃないものがいいな。それに、」
少し距離を空けて隣に座る。
「ゆっくりカレー作ってる時間なんて本当はないだろ?」
私を気遣うようにそう言う。
「今日も本当は忙しかったのに無理して帰って来たんだろ。」
すぐに答えられなかった私の返事を待たずに蒼太さんは言う。
「ありがとう。早く帰ってきてくれて。」
こういう時には‘ごめん’じゃない言葉を選択する蒼太さんが好きだった。
「一人で食べるより、一緒に食べた方がおいしいですから。」
本当は毎日でも一緒に食事をしたい。同じものを食べて、同じ場所で同じ時間を過ごしたい。そのためにする努力を、私は‘苦労’とか‘無理’とは言いたくない。
蒼太さんは何も言わずに笑って、テーブルに置かれたお茶の入ったカップに手を伸ばす。
「そういえば、新しい学校にはもう慣れた?」
話を変えるように、蒼太さんはさっきより明るい声を出す。
「まぁまぁです。校舎が前ほど広くないので、とりあえず迷子にならずに済みました。」
「それは良かったね。」
「他の先生達も優しいし、クラスの子達もいい子ばっかりです。ちょっと舐められてる感はありますけど···今日だって、」
そう言いかけて不自然に黙ってしまった。
―――先生、今日デートなのー?
さすがに言えない。私でさえ今のこの時間がデートなのか何なのか分からない。蒼太さんに無理矢理答えを求めるようなことは出来ない。
「今日、どうかした?」
首を傾げる蒼太さんに、私は首を横に振る。
「なんでもないです。最近はあれなんです。個人懇談の準備をしてて。どんなこと話そうかずっと考えてます。」
慌てて次の話題を探した。
「個人懇談って保護者とのやつだっけ?」
「そうです。五年目とはいえ、毎年保護者は違うし、やっぱり緊張するんですよね。」
「百々も緊張するんだな。」
「そりゃしますよ。むしろ今まで緊張しないと思ってたんですか?」
「いつもマイペースだし。なんか飄々としてるからさ。」
「それって褒めてます?」
「褒めてる、褒めてる。」
「蒼太さんかそうやって二回言う時はだいたい嘘ですよ!」
声を出して笑う蒼太さん。そんな蒼太さんを睨みながらも、私の心は穏やかだった。この関係にもどかしさはもちろんあるけれど、こうやって一緒に笑って過ごせている。それだけで十分。これ以上、を望んではいけない。そう言い聞かせながら、私は今日も一人の部屋に帰っていく。
毎日慌ただしく過ぎていき、あっという間にやってきた個人懇談。この三日間は給食後すぐに下校となり、そこから怒涛の懇談会が始まる。昼休みがなくなるせいで、宿題を見る時間がかなり限られてしまうから朝からとてもバタバタしていた。
懇談会初日は宿題だった漢字ノートの添削を下校時間までにやり切ることが出来ず、やむおえずプリント一枚を宿題として渡したらクラス全員大喜びだった。二日目の今日はプリントの添削をなんとか終え、新たなプリントと漢字ノートを両方宿題にしたら大ブーイングだった。宿題の量であそこまで一喜一憂できる小学生。可愛いなと思う。
今日の懇談も、残すところあと一人になった。今のところ対応に困るような保護者はいない。それなりに平和な懇談会だった。今日の最後は花乃ちゃんのお母さん。個人票によれば、花乃ちゃんのお母さんはシングルマザー。祖父母とも同居はしていないらしい。宿題のチェックもいつもちゃんとしてくれているし、何より花乃ちゃん自信がとてもしっかりしている。きっととても良いお母さんなのだろうな、と想像する。
「···すみません、少し遅れてしまって。」
教室の扉から顔を覗かせた女性を見て、私は驚いた。
「あ、いえ、大丈夫です。どうぞ。えっと、花乃ちゃんのお母さ」
「いえ、私は花乃ちゃんの母の代理で来ました。」
教室に入ってきた女性はそう言って頭を下げる。
「親族ではないのですが、一緒に暮らしています。河合しおりと申します。」
深々と下げた頭を上げる。驚く程、綺麗な人だった。
「あ、そうなんですね。花乃ちゃんの担任の辻井百々子と申します。」
頭を下げる。顔が見えなくなってもドキドキしていた。すらっと伸びた手足に、さらさらの髪。ハーフのような顔立ちはどこか作り物のようだった。見ていると吸い込まれてしまいそうな瞳。私よりは年上なのだろうけれど、はっきりと年齢が分からない。黒のパンツに白のブラウス。とてもシンプルな服装が、よりその美しさを際立たせていた。
「どうぞ、お座りください。」
顔を上げて、正面の椅子へ誘導した。女性が座ったことを確認すると、私は手元の資料に目をやる
「えっと、はい。花乃ちゃんですが、生活態度も勉強面もこちらから心配なことは何もありません。周りをよく見て動いてくれていますし、お友達にもとても優しいです。勉強も得意ですね。特に算数が。学級委員もやってくれていて、毎日私もとても助かっています。お母さ」
そう言いかけて、早口になってしまっていた言葉を一旦止める。
「保護者の方から見ていていかがですか?花乃ちゃんのことで気になることはありますか?」
女性と目が合う。大きな澄んだ目がこちらをじっと見ている。
「いえ、特には。家でも学校のこと、いろいろ話してくれます。新しく友達も出来て毎日楽しそうです。辻井先生のことも、優しい先生だって言っていました。花乃ちゃんが話していた通りの先生で、安心しました。」
穏やかな口調でそう言う。
「···恐縮です。」
普通に照れる。褒められただけでも照れるのに、ましてやこんな美人に言われたらドキドキしてしまう。
「お家での様子はいかがですか?」
そう定形の質問をすると、女性の表情が一瞬固くなった気がした。
「手伝いもよくしてくれるし、優しいです。本当に。保護者側からこんなふうに言うのもおかしいかもしれないですけど、とても良い子だと私は思っています。」
その言葉が、その話し方が、花乃ちゃんをとても大事に思っているのを物語る。
「いえいえ、おかしくなんてありません。」
こんなふうに大事に思われて育つと、花乃ちゃんのような子になるのだろうか。
「あの、」
女性は少しだけ声を大きくした。
「今日、母親が来ないこと、花乃ちゃんから何も聞きませんでしたか?」
真剣な顔でそう尋ねる女性に、私はすぐに返事が出来なかった。今日一日のことを振り返る。花乃ちゃんは何か私に言っていただろうか。何か言おうとしていた瞬間はあっただろうか。
「···いえ、何も。たぶん、普段と様子は変わらなかったと思うのですが。」
記憶をたどりながらそう答える。
「···そうですか。」
俯く女性。どこまで聞いていいのか分からない。
「あの、お母様は今日···」
語尾を濁すような狡い聞き方。どう話すのかをすべて女性に託す。
「···花乃ちゃんの母親、体調が良くなくて。」
女性は躊躇うように話し出す。
「今日も本当は本人が来るつもりだったんですけど、治療の副作用が思ったよりもきつかったみたいで。」
一過性の風邪とか、そういう類のものではなさそうだった。
「花乃ちゃんはそのことを?」
「もちろん知っています。だから、‘別に行かなくても良いよ’って。でしゃばって私が来てしまったんですが···すみません。」
「いえいえ、花乃ちゃんのお話が出来てこちらとしては良かったので気にしないで下さい。」
「あの、」
俯いていた顔を上げる。
「···平気そうに振る舞っているけれど、たぶん、花乃ちゃん不安だと思うんです。」
「···はい。」
「少しだけ、気にかけて見ていていただくことは可能でしょうか?」
「それはもちろん。」
「察しがいいというか、賢い子なので···辻井先生が気になったことをこちらにお話しして下さらなくても結構です。私や母親と、辻井先生が連絡を取ってるのが分かったらきっと何も言ってくれなくなると思うので。」
女性は真っ直ぐに私の目を見た。
「もし花乃ちゃんが助けを求めたら、辻井先生の思うように、助けてあげて欲しいんです。」
花乃ちゃんを突き放しているわけではない。きっとこの人は、花乃ちゃんが助けを求めるための道を一つでも多く作ってあげたいのだろう。家庭内ではない場所に。私はその道の候補の一つだ。
「分かりました。できる限り力になれるようにします。」
女性の強い瞳に応えるように、私も真っ直ぐ女性を見てそう答えた。
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