明日、なに食べる?

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『もうすぐ同窓会らしいね』  高校を卒業して九年経つけれど、いまだに時々開催されるクラス会。今度はクラスだけでなく、学年全体での同窓会があるらしい。でも私はクラス会にも同窓会にもずっと行けずにいた。綺麗に別れられたと思っているくせに、藤井くんに会うのが気まずかった。でもそれだけじゃない。私には、もう一人会いづらい人がいた。  千佳ちゃんと恋愛の話をしたことはなかった。藤井くんのことが気になっていたことを、他の友達にも千佳ちゃんにも言わなかった。千佳ちゃんは恋愛には興味がないのだと勝手に思っていた。だから、あんなに無神経なことが出来た。  千佳ちゃんに藤井くんの連絡先を聞いて、「付き合うことになった」と報告した。大学入学直前の春休み。千佳ちゃんの部屋で、千佳ちゃんは泣いた。 ―――‘おめでとう’って言えない。 知らなかった。千佳ちゃんのその気持ちを想像したこともなかった。でも知ったところでどうすることも出来なかった。私は藤井くんのことが好きで、藤井くんも私を選んでくれた。千佳ちゃんに謝ることは失礼な気がして何も言えなかった。何も出来なくて、千佳ちゃんと会えなくなった。私は藤井くんといることを選んだ。でもたった一年で、藤井くんとも一緒にいられなくなった。  それから何年か経って、藤井くんと千佳ちゃんが一緒にいることを人づてに知った。でもまたしばらく経って、二人が離れたと聞いた。 今、藤井くんの隣に千佳ちゃんはいない。  藤井くんとメッセージのやり取りをし始めて一週間が経っていた。付き合っていた頃よりずっと、軽い口調で続いていく会話。顔を合わせながらこんなふうに会話することは出来なかった。次々と行き交うメッセージ。とても気安い。私も返信しやすかった。昔の私達ではあり得ない。あり得ないことなのに、私はこの状況を受け入れていた。受け入れるというよりは、求めていただけかもしれない。でも分かっている。これは、現実逃避だ。  でも、このままで居続けることに疑問はあった。いつまでもこんなやり取りを続けるのはどうなのだろう。そんな気持ちが生まれて来た時に、藤井くんは同窓会の話をする。 『行くの?』 恐る恐る聞いた言葉に、返信はすぐに返って来た。 『行かないよ』 なんてことのない、その言葉に息をのむ。 『どうして?』 『だって、行けないから』 自分の鼓動が聞こえる。 『どうして?』 それでも私はまた理由を尋ねた。 だって今、藤井くんはそこにいるんじゃないの? 『本当に、分からない?』 逆にそう問いかけられて、私はきつく目を閉じた。再び目を開けた時、画面はもう真っ暗になっていた。 ‘行けない’のは、本当にもう行くことが出来ないから。 だよね?  今からもう二年前。就職をして三年目。いつも絵文字やスタンプで賑やかな高校三年のクラスのグループメッセージに、文字だけのメッセージが届いた。黒い文字だけがどんどん表示される画面を、私はただ必死に追っていくことしか出来なかった。 『藤井くん、本当に死んじゃったの?』 藤井くんが亡くなった。 理由は書いて無かった。ただ亡くなったことと、通夜と告別式の日程が記されていた。藤井くんの死を知らせてくれたのは、藤井くんの奥さん。 千佳ちゃんだった。 『うん』  そのたったニ文字が、この時間の終わりを告げる。藤井くんは、そこにはいない。私は再び目をきつく閉じる。深く、息を吸えない。  明日になったら。来週になったら。来月になったら。今この場所にしがみついている自分を全部捨てて、地元に帰ろう。そんなことを考えるだけの日々をもうどれくらい過ごしたのだろう。気付いたら、ごはんを美味しく食べられなくなっていた。いつの間にか部屋 を片付ける事が出来なくなっていた。明日は片付けよう。明日は好きな物をお腹いっぱい食べてみよう。週末になったら。連休がきたら。私の毎日は、未来の私に期待し過ぎている。今日言えなかったことは明日も言えない。今日出来なかったことは明日も出来ない。いい加減分かれば良いのに、それでも私は明日の私に希望を託していた。···この前、藤井くんにメッセージを送った前日までは。   期待することにさえ疲れてしまった。だから、藤井くんが今いる所に行きたくなった。全てから逃げ出したかった。毎日苦しくて息が出来なくて。でも親にも友だちにも言えない。皆だって頑張っている。私だけじゃない。でも、もう私は戦えない。戦いたくない。 手の中で、スマートフォンが短く振動する。 『でも』 私の返信を待たずにメッセージが続く。 『しおりはまだこっちに来ちゃダメ』 ―――河合さん、古典って得意? 『まだ、しおりとは会えない』 ―――ごめんね、河合さん 涙が、こぼれた。 分かっている。ちゃんと分かっている。私を現実に繋ぎ止めようとしてくれているのは藤井くんであるわけないってことくらい。  だって藤井くんは私を名前で呼ばない。‘しおり’だなんて一度も呼ばれたことがない。何より、藤井くんはもうそこにはいない。  本当に藤井くんに会いたかったわけじゃない。苦しくて逃げようとした先に見えた場所に、ただ藤井くんがいただけ。返信なんて来るはずがない。応答のない画面を肯定と受け取って、勝手にそっち側に行こうとしていた。なのに、どうして··· 『藤井くん』 藤井くんの笑った顔が消えない。 『うん』 だって、あの頃が一番楽しかった。 『つらいよ』 『うん』 明日の自分に期待をかけなくても、たくさんの希望があった。 『くるしいよ』 『うん』 どうしたら良くなるかばかり考えていた。 『にげたい』 『うん』 大人になった私は、どうしたら悪くならないかばかり考えている。 『でもにげるのもこわい』 『うん』 藤井くんと会えるだけで、藤井くんが笑ってくれるだけで、今日も幸せだと思えていたあの頃が、今はもう果てしなく遠い。 『かなしい』 『うん』 私は、どこで間違えたのだろう。 『ちゃんとできないのがかなしい』 『うん』 一人でいると無意識に涙が溢れる時期を過ぎて、最近はもう渇ききっていた。でも、久しぶり頬が冷たかった。文字を打つ指が震える。視界がぼやける。 『苦しくならない場所、必ずある』 そんな場所、あるのかな。 『しおりが笑った顔、好きだったよ』 嘘。藤井くんはそんなこと言わない。きっと最後まで、私のことを好きだと思っていなかったよね。なのに、藤井くんの顔が浮かんだ。笑って、私を見ている。優しくて、不器用で。すごく好きだった。 「まだこっちに来ちゃダメだよ」 私の頭の中の藤井くんが、何度も何度もそう言う。その声があまりにも優しくて、私はそれ以上藤井くんに近付けない。自らそっちに行ってはいけない。あんなにそっちに行きたかったはずなのに、今はそう思えた。 『同窓会、行ってみなよ』 行っても良いのだろうか。会ってもいいのだろうか。 『千佳ちゃんも、行くと思う?』 涙を拭きながら、藤井くんではない藤井くんにそう尋ねた。 『行くんじゃないかな』 『そっか じゃあ行ってみようかな』 『うん 千佳も喜ぶと思う』 拭いたはずの涙が画面に落ちて、文字が滲む。 『明日、なに食べる?』 明日が来る。私にはまた明日が来る。 『豚骨ラーメン、食べに行ってみようかな』 食べられないかもしれない。でも、食べられるかもしれない。 『うん 食べたらまた教えて』 ―――河合さん、古典って得意? 始まりの言葉は今でも鮮明に覚えていた。好きだった。本当に、好きだった。 『藤井くん、ありがとう』 『うん』 『会いに行くのはまだやめとく』 『うん』 目を閉じると、思い浮かぶ顔は藤井くんだけじゃない。 『千佳ちゃんに、「ごめんね」と「ありがとう」って伝えてほしい』 『わかった』 本当は、最初のメッセージが既読になった瞬間、たった四文字の返信があった瞬間、そこにいるのが誰なのかちゃんと分かっていた。 『じゃあ、またね』 『うん またね、しおり』 涙を拭いて、画面が暗くなったスマートフォンをそっとテーブルの上に置いた。 今度こそ本当に、さよなら、藤井くん。
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