笑って

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 懇談会最終日の今日も、朝から宿題の添削に追われている。時間がある時なら細かくチェックしてやり直しにするような漢字も、急いでいると普段より添削が甘くなってしまう。そしてゲシュタルト崩壊に陥る。 「せんせー、廊下で喧嘩してるよ。」 クラスの女の子二人がやって来てそう教えてくれる。宿題から意識を遠ざけると、確かに騒がしい。 「分かった。ありがとう。」 教えてくれた二人にお礼を言って、小走りで教室を出る。廊下の隅でクラスの男の子二人が取っ組み合いになっていた。 「こらこら、何やってるの?」 慌てて近付いて行くと、私より先に花乃ちゃんが二人の隣に立った。 「叩いたら、痛いよ。」 花乃ちゃんは言う。 「酷いこと言うと、嫌な気持ちになるよ。」 とても落ち着いた声で。 「叩かずに、お話ししようよ。」 二年生とは思えない言葉だった。男の子二人の熱が冷めていくのが分かる。不満そうな表情を浮かべながらも、取っ組み合う手に迷いか見えた。 「どうしたの?」 出遅れた私は、熱が冷めていく二人に話し掛ける。 「ありがとね、花乃ちゃん。」 隣に立つ花乃ちゃんにそう言うと、花乃ちゃんははにかむように笑って首を横に振る。そして一瞬、私の顔を見つめてから教室へ戻って行く。何か言いたげな視線に感じたのは、昨日の個人懇談のせいだろうか。でもきっと私は昨日あの話を聞かなかったら、今の花乃ちゃんの視線に何も感じなかったのだろうと思う。  結局花乃ちゃんと何か話をするわけでもなく、一週間が終わる。せっかくの休みにも関わらず、やり残した仕事のために私は今日も学校に行く支度をしている。 『今日、暇?』 振動するスマートフォンの画面には蒼太さんの名前とともにメッセージが表示される。結びかけていた髪を慌てて結んで、スマートフォンを手に取る。 『午前中だけ学校に行きます。』 入力して、すぐに送信する。 『夕飯一緒に食べる?』 二週間ぶりだった。 『食べます!今日は私が作りましょうか?』 隣に住んでいるはずなのに、全然会えない。 『実家から肉が届いたんだ。焼肉食べよう。』 そのメッセージを見てハッとする。もうすぐ、蒼太さんの誕生日だった。 『焼肉楽しみです。野菜とか、帰りに買ってきましょうか?』 『出掛ける用があるから、ついでに買い物してくるよ。じゃあ仕事頑張って。』 この時期に、こうやって焼肉に誘われるのももう五年目。ご実家から届くおいしいお肉が蒼太さんへの誕生日プレゼントだということを知ったのは、三度目の焼肉の日だった。 ―――ご実家近いんですよね?一緒に食べたりしないんですか? 何気なしにそう尋ねると、蒼太さんは作り笑顔を浮かべる。 ―――実家には帰らないんだ。 ―――そう、なんですか なんて答えたら良いのか分からなかった。 ―――別に仲が悪いとかじゃないんだ。連絡も時々取るし。ただ帰らないだけで。 私の戸惑いに気付いた蒼太さんはそう言う。その表情は、あの日の表情とよく似ていた。蒼太さんの部屋で、お兄さん家族の写真を見つけてしまった時の、あの悲しげな表情に。  それ以上聞けなかった。だから頭の中で憶測だけが広がって、勝手に漠然と導き出した結論がある。蒼太さんは、ご両親に会いたくないのではなくて、お兄さん家族に会いたくないのではないか。私は、そう思っている。  小学校に着くと、職員室には数人の先生が既にいた。挨拶もそこそこに、自分の机で仕事を始める。クラスのこと、授業のこと、研修のこと、行事のこと、花乃ちゃんのこと、蒼太さんのこと。考えることはたくさんあって、どれも考えがまとまらないまま、ぐるぐると頭の中を巡っていく。問題が、一つずつ順番にやってくれば良いのに。一つずつ解決して、終わったものから見えなくなって、もう同じことを何度も考えずにいられるようになったら良いのに。仕事に集中しきれないまま、そんなことを考える。  結局想定していた量の七割程しか終わらないまま、帰宅することにした。外は突き抜けるような晴天だった。雲一つない、真っ青な空。夏の始まりだ。開放されている校庭では、休日でも児童が元気よく遊んでいる。十三時を過ぎたばかり。きっとこれからまた続々と児童がやってくるのだろう。  職員用駐車場の隅にある駐輪場に向かっていると、前から女の子が一人こちらに向かって歩いて来ていた。すぐにそれが自分のクラスの子だと気付く。 「花乃ちゃん。」 名前を呼んで手を振ると、私に気付いた花乃ちゃんが駆け寄って来る。 「百々子先生、お仕事?」 紺色のワンピースを着た花乃ちゃん。他の子よりもキリッとした顔つきで、存在感のある子だ。笑うとくしゃっとなる目元がとても可愛い。 「そうなの。もう終わったから帰るんだけどね。花乃ちゃんは遊びに来たの?」 そう尋ねると花乃ちゃんは首を横に振る。 「ううん。昨日教室に水筒忘れちゃって。」 「え、そうなの。先生も気付かなかった。」 児童の下校後、一応教室内の点検をするのだけれど見落とすこともある。水筒を忘れて帰る子は結構いる。 「じゃあ取りにいってくるね。先生気をつけて帰ってね。」 そう言って手を振りながら職員用玄関へ向かおうとする花乃ちゃん。 ―――たぶん、花乃ちゃん不安だと思うんです。 懇談会で言われた言葉がふと頭をよぎる。普段と変わらない様子だった花乃ちゃんの後ろ姿を見ながら思う。話を聞くなら今がチャンスなのではないかと。 「花乃ちゃん!」 離れていく背中に向かって、大きな声を出した。花乃ちゃんは立ち止まって振り返る。私は花乃ちゃんに向かって走りだす。 「先生も教室に忘れ物しちゃった。一緒に行こうか。」 そう言うと花乃ちゃんは頷く。 「先生も忘れ物多いよね。」 そう言って笑って、再び職員用玄関に向かって歩き出す。 「···ははは。」 笑うしかない。筆箱や添削用の赤ペンを家に忘れたことは何度もあるし、職員室にプリントやノートを忘れて授業が始まってから取りに行ったことも一度や二度ではない。  二年生の教室は二階にある。私のクラス二年二組は長い廊下の一番端にある教室だった。  平日の教室とは雰囲気がまるで違う。閉め切った窓。しんと静かな室内。長い廊下の端から端まで、たぶん誰もいない。 「一年生の時もね、一回水筒忘れて取りにきたの。」 自分の机の横に掛かっていた水筒を手に取りながら花乃ちゃんは言う。 「みんながいる教室も好きだけど、誰もいない教室もちょっと好き。」 はにかむように笑う。いつも周りの子より大人びた雰囲気の花乃ちゃんの顔が、今日は年齢相応に幼く見えた。可愛いな、と思った。 「なんで先生、そんなニコニコしてるの?」 花乃ちゃんが不思議そうな顔をする。 「花乃ちゃんが、好きなこと教えてくれるのが嬉しくて。」 そう答えると、花乃ちゃんは恥ずかしそうに笑う。 「先生、」 窓際に駆け寄った花乃ちゃんは、こちらではなく窓の外を見ながら言う。 「この前、しーちゃ···しおりちゃんとどんなこと話したの?」 突然核心をつく言葉が出て来て、私は返事すら出来ずに花乃ちゃんを見つめた。私が黙っている間も、花乃ちゃんはこちらの様子を窺うことなく窓の外をじっと見たまま。 「‘お母さん’じゃない人が来たのって、私だけだった?」 お父さんが来た家庭もあったけれど、たぶん花乃ちゃんが聞きたいことはそういうことじゃない。 「河合···しおりさんだったっけ?一緒に住んでるんだよね?」 花乃ちゃんの質問には答えず、そう言葉を返す。花乃ちゃんは頷く。 「お母さんの友達で、私が小さい頃からずっと一緒に住んでるの。」 花乃ちゃんの言葉からは、河合しおりさんの存在を肯定的に見ているのか否定的に見ているのか量ることは出来ない。 「しおりちゃんのこと大好きだけど、私んちみたいな家って普通じゃないんだよね?」 普通か普通じゃないかと言われれば、きっと普通じゃない。 「私が先生になって出会ったご家族の中では、花乃ちゃんのお家だけかな。」 間違えないように、言葉を選ぶ。 「お母さんがいないお家もあるし、お父さんがいないお家もある。ひいおじいちゃんおばあちゃんまで一緒に住んでる大家族もある。一人っ子のお家もあるし、六人兄弟のお家もあったかな。花乃ちゃんが言う‘普通’って、まぁなんとなく分かるけど···家族の形は本当にそれぞれだと思う。」 俯いていた花乃ちゃんが少しだけ顔を上げる。 「···うん。別に嫌なわけじゃないの。三人でいるのすごく楽しいし。でも、懇談会は···お母さんに来て欲しかったなと思って。」 「···うん、そっか。」 小さな頃からずっと一緒に住んでいても、花乃ちゃんの中の‘お母さん’は一人だけ。 「しおりちゃんに聞いたかもしれないけど、お母さん病気なんだ。」 「···うん。」 「私が、中学生になるまで一緒にいられるか分からないんだって。」 想像しなかったわけじゃない。でも、そうでなければ良いと思っていた。 「···うん。」 「私にできることって、何もないのかな。」 ようやくこちらを向いた花乃ちゃんは、凛とした表情でそう言う。 「あはは、なんで先生が泣いてるの?」 その凛とした顔が、くしゃっと笑う。 「あ、嘘···ごめんね、」 慌てて溢れた涙を拭う。すると花乃ちゃんは笑う。 「ありがとう、先生。」 花乃ちゃんは泣いていないのに。私は当事者でもないのに。勝手に泣いている私に対して、花乃ちゃんはお礼を言う。 「お家も楽しいし、学校も好き。でも、良いのかなってたまに思うの。」 首を傾げると花乃ちゃんは眉尻を下げて笑う。 「お母さんは病気と戦いながら、お仕事もしてる。すごく大変だろうなって。なのに私は何もしてない。毎日楽しいけど、それで良いのかなって思う。」 ―――ごめんな、百々子 記憶があふれ出る。罪悪感の中で過ごす日々。楽しむことが悪だと思った。 「良いんだよ。楽しいって素敵なことだから。」 駆け寄って、花乃ちゃんの手を握る。花乃ちゃんは驚いた顔で私を見つめる。 「少なくとも先生は、花乃ちゃんにいろんなことをいっぱい楽しんで欲しい。それは悪いことなんかじゃないよ。」 過去の私が欲しかった言葉。過去の私に言いたい言葉。花乃ちゃんに届くだろうか。 「···しーちゃんも、そんなこと言ってた。」 ポツリと花乃ちゃんは言う。 「そっか。」 「‘お母さんもきっとそう思ってるよ’って。」 「うん、先生もそう思う。」 ―――ごめんな、百々子。誰も悪くないんだ。でも、 私には許されなかったけれど、花乃ちゃんはきっと違う。 ―――この家はもう、こういうふうにしか過ごせない。 「···百々子先生。お母さん、いなくなっちゃうのかなぁ?」 俯いた花乃ちゃんの手が小さく震える。私はその手を握る手に力を込めた。 「花乃ちゃん。不安になったら、また話そう。何度でも、ちゃんと聞くから。」 俯いたまま花乃ちゃんは頷く。 「だから、楽しむことを躊躇わないで。言いたいことも我慢しなくて良い。花乃ちゃんを守りたい大人はたくさんいるから。もちろん、私も。」 今日、仕事に来て良かったと思った。誰もいない、こんな状況でもなければ花乃ちゃんは話してくれなかったと思う。 「ありがとう、百々子先生。」 教師になって良かったと思った。今この瞬間、ほんの少しでも花乃ちゃんの心が軽くなったのなら私がここで教師をしている意味がある。 「花乃ちゃん、話してくれてありがとう。」 心からそう思った。  突き抜けるような晴天の下、花乃ちゃんと正門で別れた。笑顔で手を振った花乃ちゃんの後ろ姿をしばらく眺めてから私も自転車を漕ぎ出した。
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