笑って

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 日曜日の夜まで、ほとんどずっと蒼太さんの家で過ごした。一緒にごはんを食べて終わり、じゃない。なんというか世界が明るい。ソファに座る時も腕と腕が触れる距離にいられる。躊躇いなくその手や背中に触れられる。夢のようだった。 「じゃあ、帰ります。」 夕飯の片付けを終えた二十時過ぎ、玄関に立ってそう言うと蒼太さんは私の頭にそっと右手を乗せる。 「そんな顔しなくても、隣に住んでるんだから。」 離れがたいと思っているのはきっと私だけなのだろうなと思う。 「俺も連絡するから、百々もして?百々の負担にならない程度に。」 頭に乗せた手を左右に動かす。小さい子をあやすように、蒼太さんは私を撫でる。 「分かりました。連絡します。」 されるがまま頭を撫でられる。髪をぐしゃぐしゃにしていくその大きな手が愛しくてたまらない。 「じゃあおやすみ、百々。」 愛しい手が離れていく。 「おやすみなさい、蒼太さん。」 帰った自分の部屋は何年も暮らしているはずなのに、どこか知らない部屋に迷いこんだみたいだった。 ―――百々が、一緒にいてくれて良かった。 私のこの五年間は、蒼太さんにとってもちゃんと意味のある時間だった。 ―――たぶん、終わったんだと思う。 疑うわけじゃない。疑いたくもない。でも心のどこかで、本当なのかなと考えてしまう。お兄さん家族の写真を見た日、奥さんのことが好きなのかと尋ねた時の、蒼太さんの顔が忘れられない。 ―――もう会うのはやめようって言われた。 離れたのは蒼太さんの意思じゃない。二人の間に何があったのかまるで知らない私は、無駄に馬鹿みたいな想像をしては勝手に苦しくなっていく。 ―――百々。 蒼太さんが笑ってくれるだけで良い、そう思っていたはずなのに。近付けば近付くほど欲深くなっていく。できることならもう二度と、‘彼女’と蒼太さんが顔を合わせないでいて欲しい。そんなことすら願ってしまう自分が、情けなくて嫌だった。 「せんせー、プリント一枚多いです!」 一番後ろの席の男の子が大きな声を出す。 「ごめんね、前に回してくれる?」 一番前の席まで戻ってきた余分なプリントを回収して次のプリントを配る。 「今日プリント多いね。」 「明日の体育って何するのかな。」 「今日スイミングの日なんだよなー。」 ざわざわと騒がしい教室内。五時間目の授業も終わりすっかり下校モードになった子ども達。 「はーい、静かにしてね。連絡帳は書き終わったかな?」 「はーい。」 揃って大きな声で返事をする。 「夏休みに入る前に、漢字のテストがあります。さっき配ったプリントをしっかりやって来てね。」 「えー、テスト?」 「漢字テストやだー!」 一斉に騒ぎ出す。そんな中で、花乃ちゃんだけは黙ったまま姿勢良く座っていた。花乃ちゃんと目が合う。すると花乃ちゃんは、ほんの少し微笑む。可愛いな、と思う。花乃ちゃんが笑っていると、少し安心する。えこひいきしているつもりはないけれど、花乃ちゃんには笑っていて欲しい。学校が、このクラスが、少しでも花乃ちゃんを楽しませるものであって欲しいと思う。 「あら、もう帰るの?」 金曜日の十八時半過ぎ、帰り支度をしていると湯木先生がやってきた。 「はい。ちょっと予定があるので。」 「明日は?」 「休日出勤しないつもりです。」 そう答えると湯木先生は一瞬驚いた顔をした後、ニヤニヤと笑う。 「ついにデート?」 「···まぁ、はい。」 「歯切れの悪い返事ね。でもデートの割に今日はあんまり浮かれた格好してないわね。」 「···どう返していいか分からないんですけど。」 苦笑すると、湯木先生は笑って私の頭を撫でる。蒼太さんといい、湯木先生といい、どうして私の頭を撫でるのだろう。やっぱり子どもっぽいのだろうか。 「仕事に一生懸命な辻井先生も良いけど、そうやってプライベートを楽しむ辻井先生もすごく良いと思うわ。」 そう言って湯木先生は自分の席へ戻って行く。 「お先に失礼します。」 私はリュックを背負って、仕事をしている先生達に向かって頭を下げた。  小走りで自転車置き場に向かう。結局日曜日に会ったきり、平日は会えなかった。連絡も、それほどたくさん出来るわけじゃない。私の忙しさは変わらないし、蒼太さんだって忙しい。‘おはよう’と‘おやすみ’だけを送り合うような毎日。それすらも出来ずに時間が過ぎていく日もある。  昨日の朝、蒼太さんの夢を見て目が覚めた。顔も名前も知らない‘彼女’と笑い合う蒼太さんの夢を。私は見ているだけだった。だってあまりに二人はお似合いで、楽しそうだったから。  何日も何週間も会えないことが普通だったのに、たった四日会えないだけで不安で押し潰されそうだった。 『蒼太さん、会いたいです』 夢から覚めた私は、そうメッセージを送った。しっかりと覚醒した瞬間、メッセージを送ったことを後悔した。一週間も経っていないのに。今までこれが普通だったのに。不安な気持ちを埋めたいがために、そう送った。メッセージの送信を取り消そうとした瞬間、既読がついてしまった。 『今日は遅くなりそうなんだ。明日の夜、会える?』 すぐに返ってきた返事。モヤモヤしていた心が、少しだけ明るくなる。 『会えます。明日は私がごはんの準備しておきます。』 送信した瞬間、既読がつく。蒼太さんからの返事が来る前に、私は再び入力を始める。 『ごめんなさい、無理言って』 またすぐに既読がつく。 『無理な時は、ちゃんと無理って言うから。』 届いた返事。胸がぎゅっとなる。 『今日も頑張ろうな、百々』 『はい!蒼太さんも頑張ってください!』 『いってらっしゃい』 『行ってきます。蒼太さんもいってらっしゃい。』 『行ってきます』  昨日の朝で途切れたLINE。蒼太さんが何時頃帰宅するかも分からないまま、私は最低限の仕事を終えた十八時半に慌てて学校を出た。買い物は昨日の帰りに済ませておいた。真っ直ぐ帰って準備をするだけ。自転車を漕ぐ足に力を込める。  蒼太さんの車はまだ駐車場にいない。駐輪場に自転車をとめて、小走りで家へ向かう。玄関の前でリュックを下ろし、鍵を取りだそうとした。でもおかしい。キーケースがリュックの中に見当たらない。リュックの隅々まで探したけれどキーケースは入っていなかった。学校に忘れてしまったのかもしれない。スマートフォンを取り出して、湯木先生の電話番号を表示する。 RRRRR···· しばらくコール音が鳴ったあと、湯木先生が電話に出た。 『辻井先生、どうかしたの?』 控えめの声量で話す湯木先生。まだ他の先生もたくさん残っているはずだ。 「お仕事中にごめんなさい。私の机にキーケース置いてないか見てもらえませんか?」 『え、鍵忘れたの?』 湯木先生の声が少し大きくなる。 『ちょっと待ってね。えーっと····』 おそらく私の机に移動してくれている。 「すみません。」 電話越しに何度も頭を下げた。 『あ、あった。ペン立ての横に置いてあるわよ。』 湯木先生の明るい声に、ホッとした。 「良かった、ありがとうございます。」 自転車の鍵をキーケースから外して、そのまま置いてきてしまったのだろう。 『取りに来るの?』 「そうですね、家入れないので。」 苦笑しながらそう言うと、湯木先生も笑う。 『じゃあ机に置いておくわね。』 「はい、ありがとうございます。」 そう言って電話を切った。スマートフォンを持つ右手を下に下ろし、項垂れる。学校までは片道十五分強。今から三十分以上時間をロスしてしまう。それでも行くしかない。出そうになったため息をなんとか飲み込んで、再び小走りで階段を降りていく。踊り場を曲がった所で、上ってきた人とぶつかりそうになってしまった。 「すみません、」 「あれ、百々?」 聞き慣れた声。 「え、あ、蒼太さん」 見上げれば蒼太さんの顔があった。 「今からどこか行くの?」 「いや、あの···学校に鍵忘れちゃって···家に入れなくて。」 「自転車は?」 「たぶん自転車の鍵だけ持って、キーケースは置いてきちゃったんだと···ごめんなさい、今から取りに行ってきます。せっかく蒼太さんも早く帰って来てくれたのに···本当にごめんなさい。」 私から会いたいと行ったくせに。私から夕飯を用意すると行ったくせに。 「夕飯の準備、まだだよね?」 蒼太さんは普段通りの穏やかな声で言う。私は黙って頷く。 「それなら鍵を取りに行くついでに、今日は外食にしようか。車で行けば学校も近いだろ?」 「え、でも···」 「今日作る予定だったものは明日一緒に作ろう。だから百々、」 蒼太さんの大きな手が私の頭にそっと乗った。 「そんな顔しなくて大丈夫。」 優しくそう言われて、鼻の奥がツンとした。泣くようなことじゃない。なのにいっぱいいっぱいで、涙が出そうだった。 「先生に怒られた小学生みたい。」 蒼太さんが笑う。 「小学生って···酷いです。」 なんとか涙を堪えて笑って答えた。  蒼太さんの車に乗るのは久しぶりだった。 「学校の前って停めて良いの?」 車だとあっという間に学校に到着する。ペーパードライバーの私は、利便性よりも安全性を取り自転車通勤をしている。 「学校の周りは駐車出来ないので···中に入って職員用駐車場に停めて貰えれば大丈夫です。」  正門から入り、駐車場に車が停まる。何度も乗っているけれど、蒼太さんの運転はとてもスマートだ。 「すぐに取ってくるので、ちょっと待ってて下さい。」 蒼太さんを車に残して、私は職員室に向かって走り出す。  湯木先生にお礼を言って、キーケースを持って戻ると蒼太さんはすぐに私に気付いた。 ‘あった?’ 車の窓越しに見える蒼太さんの口がそう動く。私は頷いて、右手に持っていたキーケースを高く上げた。 「お待たせしました、すみません。」 「良いよ。で、何食べる?」 「蒼太さんは何の気分ですか?」 「そうだなぁ。」 カーナビで近くの飲食店を検索しながらどこへ行くのか考える。しばらく悩んで、大通りから少し外れた場所にある和食屋さんに行くことにした。 「こんなお店があるの知りませんでした。」 「俺も同僚に教えてもらうまで知らなくてさ。何回か行ったけど、おいしいお店だったよ。あの辺り大きな病院があるだろ?」 「清華病院ですよね。前の学校の時に、クラスの子が入院してたことがあって。一度お見舞いに行ったことがあります。」 運転する蒼太さんの横顔を見ながら話す。蒼太さん越しに見える夜の街はまだ明るい。 「自転車だと普段あの辺りあんまり行かないだろう?お見舞いの時迷子にならなかったの?」 蒼太さんは笑う。 「残念でした。他の先生の車に乗せてもらったので迷子にはなっていません。」 自信満々にそう答えると蒼太さんは声を出して笑った。 「俺の実家が、結構近くなんだ。高校の頃とか自転車であちこち走ってたわりに知らない場所が多くてさ。大人になってから知った所もたくさんあるんだよ。」 「ご実家、この辺りなんですね。」 「そう。向こうの通りにある中学が母校だよ。」 「蒼太さんってどんな子どもだったんですか?」 「虫とりと外遊びばっかりしてた。」 「意外です。お家でゲームとかしてそう。」 「なんだそれ。百々は県外なんだよな?」 「はい。入れそうな教育学部がある大学がここで。」 実家にいたくなかったことは敢えて言わなくても、たぶん蒼太さんには伝わっている。 「そっか。あ、着いた。あそこだよ。」 右にウインカーを出した車が速度を落とす。この道をさらに進んだ左側には清華病院が見える。  車を駐車して外に出る。外はもう暗いのに気温はさほど下がっていない。まだまだ暑かった。ふと、左側の歩道の方へ目をやると、人が歩いていた。親子だろうか。小学校低学年くらいの女の子と、母親らしき人。 「···あれ?」 既視感のあるその人達に、私は思わず一歩近付く。すると歩道にいた二人もこちらを見た。 「···百々子先生?」 聞き慣れた声。 「花乃ちゃん?」 私は駆け寄る。花乃ちゃんの隣にいたのは、個人懇談の時に会った河合しおりさんだった。 「こんばんは。」 河合しおりさんが口を開く。 「こんばんは、お久しぶりです。」 お辞儀をして顔を上げる。すぐそこにあった花乃ちゃんの顔が、泣きそうに歪んでいるように見えた。 「あ、えっと···お散歩ですか?」 そう尋ねると、河合しおりさんは曖昧に笑う。花乃ちゃんが小さく首を横に振る。 「···お母さんが倒れちゃって。救急車で運ばれたの。」 ポツリと言った花乃ちゃんは、じっと俯いている。私は言葉が出ずに、情けない顔をしたまま河合しおりさんの顔を見た。 「あ、でもとりあえず大丈夫そうなので私達は一度帰宅する所なんです。あそこの清華病院。そんなに遠くないので。」 花乃ちゃんの様子を窺いながらそう話す。 「そう、なんですか。」 気の利いたこと一つ言えない私はそれだけ言って、俯いている花乃ちゃんの頭頂部に視線を移す。 「···百々?」 後ろから聞こえた蒼太さんの声。 「あ、はい!」 私は慌てて返事をする。車の向こう側からこちらにやってくる蒼太さんの方を向くと、何故か蒼太さんが目を見開いて立ち止まった。 「蒼太さん?」 声を掛けても蒼太さんは動かない。 「···蒼太、くん?」 後ろから、河合しおりさんの声がした。親しげな呼び方で呼ぶその声に驚いて私は振り向く。河合しおりさんも、蒼太さんと同じように驚いた顔をしていた。 「···しおりさん。」 蒼太さんの口からぽろりと溢れた名前。私は二人の顔を見比べる。 「え、あ···お知り合いですか?」 そう尋ねると二人は目を泳がせる。 「···‘お父さん’?」 花乃ちゃんの声に、私は耳を疑う。 「え、‘お父さん’?」 私の言葉はたぶん誰にも届いていない。 「花乃?」 蒼太さんが花乃ちゃんに向かってそう言う。私の名前を呼ぶ時と比べ物にならないほど優しい声で。花乃ちゃんが躊躇いがちに頷く。 「大きくなったな。もう俺のことは覚えてないか。‘蒼ちゃん’って呼んでくれてたけど。まだ三歳だったもんな。」 花乃ちゃんは困惑した顔で首を傾げる。 「花乃ちゃん。この人はお父さんの弟の蒼太くん。小さい頃よく遊んでもらっていたんだよ。」 河合しおりさんがそっと花乃ちゃんの肩に触れる。 「写真の、お父さんとそっくり。」 「うん、よく言われる。」 答える蒼太さん。 花乃ちゃんのお父さんの弟が蒼太さん。 お兄さんとそっくりな蒼太さん。 花乃ちゃんのお母さんはシングルマザー。 蒼太さんが好きだった人はお兄さんの奥さん。 あれ?なんだこれ。繋がってしまう。それじゃあ蒼太さんがずっと好きだった人は、花乃ちゃんのお母さん―――··· 「百々、知り合い?」 「あ、うん。花乃ちゃん、私のクラスの子なの。」 答えると蒼太さんは驚いた顔をする。 「しおりさん、千佳は?」 蒼太さんの口から出た初めて聞く名前。心がズキンと痛む。 「あ、えっと···」 さっきの私達の会話は蒼太さんには聞こえていなかったらしい。河合しおりさんが言葉を濁しながら、チラッと私を見る。たぶんこの人の中でも繋がったのだろう。私と蒼太さんの関係が。 「お母さん、入院してるの。」 花乃ちゃんが、そう答えた。河合しおりさんが花乃ちゃんの後ろで目を伏せる。その瞬間、私の後ろにいたはずの蒼太さんが、勢いよく私の横を通り抜け河合しおりさんの腕を掴んだ。 「千佳、何かあったんですか?!」 蒼太さんの顔は見えない。でも河合しおりさんの顔を見れば、その蒼太さんの声を聞けば、今蒼太さんがどんな顔をしているのか想像出来た。 ―――百々が、いたからだと思う そう言ったのに。 ―――たぶん、終わったんだと思う。思い出すことも最近はほとんどないよ。 嘘ばっかり。蒼太さんの後ろ姿を見ただけで分かる。 まだ‘彼女’のことが好きなのだと。
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