笑って

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 少し前に通ったばかりの道を走る車の中はとても静かだ。 ―――蒼太さん、今日はもう帰りましょうか。 お店に入ることなく、私達は引き返す。もう楽しく食事が出来る雰囲気ではなかった。 「ごめんな、百々。」 ポツリと蒼太さんが言う。真っ直ぐ前を向いたまま。私は首を横に振る。蒼太さんから見えているかは分からない。でも声を出したら、堪えているものが流れ出てしまいそうだった。 ―――千佳、何かあったんですか?! 花乃ちゃんの顔が怯えていた。だから私は花乃ちゃんを連れて、その場から少しだけ離れた。話を終えた二人の元へ戻ると、蒼太さんの顔は今にも泣き出しそうだった。 ―――お母さん病気なんだ。 あの日、誰もいない教室で花乃ちゃんが言った言葉を思い出す。 ―――私が、中学生になるまで一緒にいられるか分からないんだって。 それは花乃ちゃんの六年生最後の日かもしれないし、明日かもしれない。何にせよ、花乃ちゃんのお母さんの時間はそれ程長くないのだろう。 「百々、知ってたの?」 またポツリと言う。蒼太さんに気付かれないようにゆっくり息を吸う。 「···花乃ちゃんのお母さんが病気だということは聞いてました。でも、花乃ちゃんが蒼太さんのお兄さんの子どもだったことはさっき初めて知りました。」 ゆっくりと吐く息とともに言葉を紡ぐ。別に私に後ろめたいことは何もない。でも、選ぶ言葉を間違えてはいけない気がした。 「···そっか。まぁ、そうだよな。」 前方にある信号が黄色に変わる。車はゆっくり減速し、やがて停止する。蒼太さん越しに見える外の景色は、行きよりもずっと暗い。 「治療も、難しいらしいんだって。」 「···そう、なんですね。」 続く沈黙。やがて信号が青に変わる。緩やかに走り出す車。 「花乃のこと、よろしく頼むよ。」 静かに、蒼太さんは口を開く。 「···はい。」 ―――もう会うのはやめようって言われた。 その約束は、こんな状況でも守らなければならないものなのだろうか。会えるのに会わないのと、二度と会えなくなるのは全然違う。でも今の私は、今の蒼太さんに向かってそんな言葉を投げかけることは出来ない。  車をおりて、マンションの階段を上っていく。いつもは並んで歩くのに、今日は蒼太さんの後ろを歩く。それに対して蒼太さんは何も言わない。たぶん本当は、早く一人になりたいのだと思う。 「···じゃあ、おやすみなさい。」 玄関先に立つ。 「おやすみ。···ごめんな、百々。」 それが何に対する謝罪なのか分からない。聞く勇気すらない。  鍵を、学校に忘れなければ良かった。そうすれば、こんなことにはならなかった。あの場所で花乃ちゃんと河合しおりさんに会うことはなかった。花乃ちゃんのお母さんと蒼太さんの関係も、蒼太さんの隠していた気持ちも、何も知らずにいられたのに。そう思いながら、玄関で靴を脱ぐ。耳をすませば微かに聞こえる隣の部屋からの音。本当なら今も一緒にいられたはずなのに。  軽く夕飯を食べて、お風呂に入って、ベッドの上に仰向けに寝転ぶ。電気を消して真っ暗にした。やがて目が慣れてくる。  私の、このモヤモヤとした感情はなんなのだろう。蒼太さんに好きな人がいたことは、もう随分前から分かっていたことなのに。ここ数年一緒にいたぽっと出の私が、蒼太さんの気持ちをどうこうしようだなんておこがましい。私が実家を苦手とする気持ちがどうにもならないように、蒼太さんだってずっと好きだった人への気持ちが簡単に消えてなくなるわけじゃない。 ―――思い出すことも最近はほとんどないよ。 そう言った一週間前の蒼太さんを、さっきは嘘つきだと思った。でも蒼太さんが取り乱した理由は、好きだった彼女が病気で死んでしまうかもしれない、からだ。そんな状況で取り乱さない方がどうかしている。特別好きな人じゃなくたって、友達でも昔の同級生でも、そんな状況にあると聞いたら私だって少なからず動揺するだろう。  私は、蒼太さんにどうして欲しいのだろう。彼女への思いを押し込めて、私を一番だと言って欲しかったのだろうか。彼女が病気だと分かっても、平気な顔で笑って一緒に食事をして欲しかったのだろうか。彼女のことも、花乃ちゃんのことも全部知らんぷりして、私のことだけを見て欲しかったのだろうか。  ···全部違う。初めて蒼太さんと食事をして好きだと自覚したあの日、私は何を思った? 笑って欲しい。 心の底から笑っている顔を見てみたい。 そう、思ったはずだった。  考えよう。どうしたら蒼太さんが笑えるのか。どうしたらあんなに悲しそうな顔をしなくて済むのか。  ベッドから飛び起きて、部屋の電気をつける。髪を一つに結んでキッチンへ向かう。エプロンをつけて、冷蔵庫からひき肉や野菜を取り出す。もう二十三時を過ぎていた。でも、いてもたってもいられない。あまり大きな音を立てないように調理器具を出して、野菜を切り始めた。  昨夜遅くに作ったキーマカレーの匂いで目が覚めた。遅くに寝たわりには、すっきりとした目覚めだった。時刻は六時二十分。カーテンの隙間から漏れる光が明るい。  顔を洗って、身支度を整える。もうモヤモヤはしていない。ちゃんと考えた。私は、蒼太さんに笑って欲しい。ずっと。今も、明日も、これからやってくる未来のすべてで。  鍵をポケットに入れ、キーマカレーの入った鍋と炊きたてのご飯が入ったタッパーを持って、蒼太さんの部屋の前に立つ。蝉の鳴き声を聞きながら、一度大きく深呼吸をする。そして、インターフォンに手を伸ばす。 ‘ピンポーン’ 聞き慣れた音。まだ八時前。どう考えても非常識。でも、時間が経てば経つほど蒼太さんと会いづらくなってしまう。本当はキーマカレーが完成した深夜に訪れたかったくらいだ。  中から足音が聞こえ、ゆっくりと扉が開いた。 「···百々?」 「はい。おはようございます、蒼太さん。」 扉の隙間にいる蒼太さんは、昨夜と同じ顔をしていた。眠れなかったのだろうか。目の下にはクマがくっきりと浮かび上がっている。 「こんな時間にどうした?仕事行くのか?···ていうかその鍋は?」 困惑している蒼太さんに、私は鍋を差し出す。 「仕事には行きません。一緒に朝ごはん食べましょう。」 目を丸くする蒼太さんに鍋を押し付けて、玄関の中に押し入った。 「夕飯ちゃんと食べました?」 そもそも私はこんな感じだった。ヘラヘラ笑って空気の読めないふりをして話し掛け続けた。始まりはそうだった。そんな私と、蒼太さんは仲良くなってくれた。なのに、蒼太さんを好きになっていくにつれて、私は臆病になった。様子を伺い、言葉を選び、これが正しいのかいちいち気にして蒼太さんの前にいた。これじゃダメだ。私も、蒼太さんの前で笑っていたい。蒼太さんと一緒に笑っていたい。 「···いや」 「ダメですよ、ちゃんと食べないと。おいしいものでお腹がいっぱいになったら、気持ちも少しは変わります。」 蒼太さんがコンロに置いた鍋に火をかける。ご飯は温め直さなくても大丈夫そうだ。 「蒼太さん、」 何も言わない蒼太さんの両頬に両手を当て、ぎゅっと顔を潰すように力を入れた。されるがままの蒼太さんに、私はもっと力を入れた。 「···百々、さすがにちょっと痛い。」 苦笑する蒼太さん。その笑った顔を見て、私も笑う。 「はい、ごめんなさい。」 笑って謝って、両手の力を緩める。両頬にそっと触れているくらいの力加減にしてから、その頬を撫でるように動かした。 「蒼太さん、」 蒼太さんと目が合う。 「さぁ、ごはんにしましょう。」 情けなく笑った蒼太さんが頷く。 「百々、俺そんなに食べれるか分かんないよ。」 盛り付けたキーマカレーを、座っている蒼太さんの前に置く。 「そうですか?まぁ無理なら私が食べます。」 そう答えつつキッチンに戻り、蒼太さんの皿より多めにご飯とカレーをよそう。 「朝から食欲旺盛だな。」 テーブルに置いた私の皿を見て蒼太さんが笑う。さっきまでよりその表情は明るい。 「夜中に作ってたんですけど、その時からお腹空いちゃって。ただ蒼太さんと一緒に食べようと思っていたから、味見しかしなかったんですよ。偉くないですか?」 「偉い偉い。」 口調もいくらか軽い。 「褒め方が適当ですね。」 「ははは。」 笑って、柔らかくなった表情。そしてふと、真面目な顔をする。 「百々。」 「はい。」 「ありがとう。」 真面目な顔でそう言われると、どう返して良いのか分からない。 「···私はただ、蒼太さんに笑っていて欲しいだけなんです。」 「うん。」 「蒼太さんの痛みを、蒼太さんがどれくらい傷付いているのかを、私は想像することしか出来ないから、」 「うん。」 「馬鹿みたいかもしれないけど、おいしいごはんを作って、それを一緒に楽しく食べることで、蒼太さんが少しでも元気になれば良いなって思って、」 「うん。」 「だから蒼太さん、とりあえず食べましょう。」 目の前にはホカホカと湯気の上がるキーマカレー。時刻は、朝八時過ぎ。向かい合って、スプーンを持つ。 「いただきます。」 蒼太さんが言う。 「いただきます。」 私も、後を追うように言う。 「···おいしいな。」 一口頬張った蒼太さんがポツリと言う。それだけで、心が温かくなる。 「おいしいですね。さすが私。」 笑ってそう返すと、蒼太さんも笑った。
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