笑って

8/9

13人が本棚に入れています
本棚に追加
/29ページ
 食べ終えた後、蒼太さんは、花乃ちゃんのお母さんの‘千佳さん’とのことを少しだけ話してくれた。 小さな頃からずっと大好きだったこと。 でも千佳さんはずっと蒼太さんのお兄さんのことが好きだったこと。 お兄さんと千佳さんが結婚することになった時、諦めようとしたこと。 お兄さんが亡くなったこと。 結婚指輪を隠したこと。 千佳さんと結婚したかったこと。 花乃ちゃんを娘のように可愛がっていたこと。 河合しおりさんのこと。 でも、 千佳さんの目に映っていたのは、いつまでもお兄さんだけだったこと。 そして千佳さんから、‘もう会わない’と告げられたこと。 それが五年前、私と蒼太さんが出会った頃のことだった、と。  あまり感情を乗せずに話しているけれど、それでも痛いほどに伝わってくる。蒼太さんがどれほど千佳さんのことを好きだったか。 「百々に出会ってからずっと、俺は百々に救われてきたんだよ。」 そう、蒼太さんは言う。今そんなふうに言うのはずるいと思った。でも、それが事実なら私が蒼太さんと出会った意味はある。 「蒼太さん、会いに行かないんですか?」 遠回しな言い方はしない。私は会った方が良いと思う。だからそう尋ねた。蒼太さんは困ったように俯く。 「私は詳しいことは分からないし、蒼太さんと‘千佳さん’がお互いどんな気持ちで離れたのかも知らないですけど、」 息を深く吸う。 「会えるのに会わないのと、もう二度と会えなくなるのは全然意味が違うと思います。」 吸った息をすべて吐き出すようにそう言った。‘二度と会えなくなる’という言葉が適切なのかどうかは分からない。でも花乃ちゃんの言っていた、‘中学生になるまで一緒にいられるか分からない’という言葉が本当なら、残された時間はそれほど長くない。しかもそれは絶対じゃない。もっと、早いかもしれないのだ。 「···そうだよな。うん、分かってはいるんだ。」 蒼太さんはポツリと言う。 「でも俺は、‘会わない’って言われた側だから。」 情けない顔で。蒼太さんの気持ちはなんとなく分かる。フラれた側がのこのこ会いに行くのは気が引けるに決まっている。 「じゃあもうこのまま会わずにいるんですか?」 蒼太さんが少しだけ顔を上げる。 「会わなくてもちゃんと気持ちを切り替えて、何年か経った頃に訃報だけが届いたとしても、何の後悔もせずにその先生きていけるんですか?」 歪んだ蒼太さんの表情を見て、心が痛む。虐めているつもりじゃない。傷付けたいわけでもない。きっと、何もしないままでいた方が後々蒼太さんは傷付くのだと思う。私自身は、千佳さんの死を蒼太さん程には悲しまない。母親を亡くした花乃ちゃんや、初恋の人を亡くした蒼太さんを見て、その悲しみにほんの少し飲み込まれるだけ。だから蒼太さんが、千佳さんのことを何も気にせず私と過ごせるのなら、それはそれで構わない。でも、分かるのだ。 「蒼太さんには、それは無理だと思います。」 断言出来る。蒼太さんには無理だと。 「···言うね。」 「はい、もうズバズバ言います。だって、」 だって私は、 「蒼太さんに笑って欲しい。できる限り傷付かない道を選んで欲しい。」 そう、心から思う。例えそれが、私ではなく千佳さんを選ぶ道であっても。  蒼太さんは右手でぐしゃぐしゃと頭を掻く。そして顔を上げる。 「···そうだな、うん。」 目が合う。あぁ、決めたのだな。そう分かった。 「連絡、取ってみるよ。」 その言葉に私は深く頷く。これで良い。こうすることが、きっと前に進むことに繋がる。そう信じて、私は蒼太さんの背中を押す。 「蒼太さん、偉いですね。」 少しだけ、ほんの少しだけ滲みそうになった涙を押し込めるように笑ってそう言った。苦笑する蒼太さんを見て、太股の上にある両手拳にぎゅっと力を込めた。  あれから蒼太さんが、千佳さん本人に連絡をしたのか河合しおりさんに連絡をしたのかは分からない。どちらにせよ千佳さんはまだ入院中で、体調がどれくらい悪いのかも分からない。だから私もただ待つしかなかった。蒼太さんが千佳さんと会う日を。 「せんせー、このプリント昨日もやったよー!」 宿題のために配布したプリントを見て男の子が声を上げる。 「え、本当に?!」 慌てて昨日の宿題のプリントと見比べる。全く同じ算数の問題が並んでいる。でも今日のプリントは昨日より印刷が右側に寄っている。‘くりあがりをわすれないようにね’と喋っている謎の犬のイラストの尻尾が少し切れていた。 「あー···本当だ。ごめんね。」 「じゃあ今日は宿題なし?」 キラキラとした目を向けられて小さくため息をつく。今から新しいプリントを用意するには時間が足りない。 「申し訳ないけど、このプリントやってきてくれる?」 子どもたちが言わなくても保護者もきっと気付くだろう。また私の‘しっかりした教師’への道は遠ざかっていく。 「えー!!!」 そして子ども達のブーイングの嵐。 「はい、ごめんねー!」 負けじと大きな声を出して、帰りの会を始めた。  帰りの挨拶を終えると、それぞれ賑やかに教室から出て行く。その小さな背中達を一つ一つ見送って、やがて教室の中は空っぽになる。 「百々子先生。」 少し前に教室を出て行ったはずの花乃ちゃんが小走りで戻ってきた。 「花乃ちゃん、どうしたの?忘れ物?」 今日はちゃんと水筒は持っているようだった。 「ううん、先生に言いたいことがあって。」 駆け寄ってきた花乃ちゃんが私の前に立つ。 「言いたいこと?」 「うん。あのね、明日お母さんが退院するの。」 いつもより少し大きな声で、嬉しそうに言う。心臓がドクンと音をたてる。 「そうなの!良かったね、花乃ちゃん。」 花乃ちゃんに負けないくらい明るい声を出す。花乃ちゃんは嬉しそうに頷く。すると廊下を走るようなバタバタという音が近付いてきた。 「花乃、帰るぞ。」 顔を覗かせたのは、隣のクラスの男の子。友利大河(ともりたいが)くんだった。一見、花乃ちゃんと仲の良いタイプには見えない子。でも登下校ともに花乃ちゃんと一緒にしているらしい。 「うん、もう行く。」 大河くんの方に振り返り、花乃ちゃんは言う。教室にいる時の花乃ちゃんは他の子より少し大人びている。でも大河くんといる時の花乃ちゃんは、年相応に幼く見える。 「花乃ちゃん、」 花乃ちゃんがこちらに視線を戻す。 「教えてくれてありがとう。」 そう言うと、花乃ちゃんがにっこりと笑う。 「ありがとう、百々子先生。」 それが何に対するお礼なのか分からなかったけれど、花乃ちゃんの嬉しそうな顔を見られるのなら理由なんてどうでも良かった。千佳さんが退院することで、二週間止まっていた時間が動き出してしまうとしても。大丈夫、私も覚悟は出来ている。二人が会うことで何かが変わってしまったとしてもきっと受け入れられる。 『千佳さん、明日退院されるそうです。』 職員室に戻り、休憩をしながら蒼太さんにメッセージを送る。蒼太さんがこのメッセージを読むのはきっと夜になってからだ。これでもう、今私に出来ることは何もない。後は蒼太さんが動くだけ。  千佳さんが入院した日から二週間が経っていた。来週には終業式がある。もう夏休みが始まる。  仕事を終えて自転車置き場に向かう途中に、低学年の花壇がある。二年生の花壇に植えた向日葵の背は、もう優に私の背を越えていた。前の学校でも向日葵を植えていたけれど、満開に咲くのは毎年夏休みに入ってからだ。夏休み中の水やり当番や飼育当番も、今は存在しない。だから子ども達のほとんどはこの向日葵が咲くところを見ずに二学期を迎えるのだ。  自転車の鍵を外した時、リュックのポケットでスマートフォンが短く振動した気がした。 『分かった。ありがとう。』 蒼太さんからの返事。この先はもう、私の出る幕じゃない。分かっているのに、どこか不安で、寂しい。薄暗い空を見上げて、目を閉じた。蒸し暑い夏の空気を肺いっぱいに取り込むように息を吸った。  当然のように土曜日である今日も学校に来て、今週やった山のようなテストの添削をする。随分前に予告しておいた夏休み前の漢字テストは、普段のプリントに比べて採点を厳しくしなければならない。とめ、はね、はらい。九十点以上で合格。届かなければ追試を受ける。おしいな、ここさえ丁寧に書けていれば合格だったのに。そんな子が何人もいる。花乃ちゃんを含めた三人が満点。合格はクラスの三分の一ほど。追試もまた同じ採点基準。不合格が多ければ多いほど、こちらの採点に費やす時間も長くなる。やるべきことが終わることなく、列をなして遥か彼方まで続いている。もうがむしゃらに目の前のことに取り組むしかない。  夕方帰宅する頃はまだ日が高く、外は焼けるように暑い。平日は暗くなってから帰るから、この暑さの中自転車に乗ることはあまりない。このまま通り道にあるスーパーに寄って、数日分の食料を調達しなければ。ペダルを漕ぐ足に力を入れる。  約束もしていないのに、少し多めに買ってしまった。自転車のカゴには入りきらず、リュックの中に牛乳とキャベツが入っている。一人で食べるには多過ぎる丸ごと一玉のキャベツを買ったのは、これを口実に蒼太さんとご飯を食べたかったから。  駐車場に蒼太さんの車はない。階段を上って、私の部屋の手前にある蒼太さんの部屋の前で、一度立ち止まる。今、この扉の向こうに蒼太さんはいない。今日は千佳さんが退院する日。もう、二人は会っているのだろうか。暗くなりかけた気持ちを深呼吸でかき消して、自分の部屋の鍵を開けた。  結局たくさん作ってしまったロールキャベツ。窓の外を見ても、蒼太さんの車はまだない。一人で出来たてのロールキャベツを食べながら、スマートフォンに手を伸ばす。蒼太さんとのメッセージ画面を開いて、文字を入力していく。 『ロールキャベツ作りました。明日一緒に食べませんか?』 そう送って、ロールキャベツを一口食べる。おいしい。でも、おいしくない。一人で食べるごはんはおいしいけれどおいしくない。もうすぐ夏休みに入る。給食がなくなる。わいわいと騒がしいあの食事時間が消えて、朝も夜も私は一人で黙々とごはんを食べる日々がやってくる。賑やかに食べることが好きだっただけで、一人が嫌だったわけではなかったのに。蒼太さんと過ごした五年間は、私をすっかり弱くさせた。会いたかった。すぐにでも、蒼太さんに会いたい。  日付が変わる頃まで起きていたけれど蒼太さんに送ったメッセージは既読にすらならなかった。そのままベッドで寝落ちして、気付けばカーテンの隙間から眩しい光が注いでいる。体を起こす。七時を過ぎたところだった。スマートフォンを見ると、蒼太さんから返事が来ていた。 『遅くなってごめん。今出張先で、朝の新幹線で帰る。昼には戻れるから、ロールキャベツ楽しみにしてる。』 そうか、出張だったのか。新幹線で出張に行く時、駅に近い会社にいつも車を置いて行くと言っていた。千佳さんと会っていたわけではない。それだけで、私はホッとしていた。自ら背中を押したくせに、結局私は不安で仕方ない。  朝食を食べて、着替えて、化粧品をする。毎日繰り返す作業も、蒼太さんと会えると分かれば少しだけ心が踊る。洗濯物を干して、掃除をして、気付けば十時半を過ぎていた。時々スマートフォンを見て、蒼太さんから連絡が来ていないか確認する。時々窓の外を見て、蒼太さんの車が停まっていないか確認する。意味もなく冷蔵庫の中に鍋ごとしまってあるロールキャベツを確認してみたり。落ち着かない。家の中でやることも一通り終わってしまった。意味もなく私は玄関へ向かう。用事があるわけでもないのに、私はサンダルを履く。外に出れば少しは落ち着くかもしれない。そう思って玄関の扉を開けた瞬間、とても近くで聞き慣れたインターフォンの音が聞こえた。  外に出ると、隣の部屋の前に女性が一人立っていた。右手がインターフォンのボタンの前にある。私が出てきたことで女性も驚いたらしく、目を丸くして顔だけこちらを向けている。 「こんにちは。」 短い髪。ベリーショートというのだろうか。眉毛までしっかり見えるその顔でにっこりと笑って会釈をされた。 「···こんにちは。」 私は笑い返せなかった。だって、女性が立っているのは蒼太さんの部屋の前だった。五年間、蒼太さんを尋ねてきた女性に遭遇したことはない。初めてのことに動揺が隠せない。  化粧は薄そうだけれど、はっきりとした顔。黒いブラウスに細いジーンズを履いて、ヒールのない靴を履いている。姿勢が良くて、その立ち姿が綺麗だと思った。でも、細い。ブラウスから伸びる腕も首筋も、とても細かった。  目が逸らせない私を見て、女性は困ったように笑う。その表情を見た瞬間、花乃ちゃんの顔が浮かんだ。花乃ちゃんの顔が心の奥に、スッと溶けていく。あぁ、そうか。この人は··· 「···‘千佳さん’、ですか?」 そう尋ねると、女性は驚いた顔をする。そして、頷く。 「藤井千佳と言います。えっと···」 困ったように私の顔を見る。 「私は、」 「千佳?」 答えようとした瞬間、千佳さんの後ろから蒼太さんの声が聞こえた。千佳さんが振り返る。 「蒼太、久しぶり。」 その後ろ姿から聞こえる声に、私の心臓は大きな音をたてる。蒼太さんの足音が近付いてくる。でも私は、顔を上げることが出来なかった。
/29ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加