笑って

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 どうしてこんな状況になってしまっているのか。私はただ外の空気を吸って落ち着こうとしただけだったのに。  蒼太さんの家のテーブルの周りを囲むように座った私達三人。まだスーツ姿の蒼太さん。挙動不審な私。一番落ち着いているのは千佳さんだ。 「···連絡くれれば俺が行ったのに。だいたい不在だったらどうするつもりだったんだよ。」 ボヤく蒼太さん。でも千佳さんの顔を真っ直ぐ見てはいない。 「事前に連絡すると、蒼太の精神衛生上良くないかと思って。ほら、昔から行事前とか試験前とかよくお腹痛くなってたでしょ。隠してたつもりだと思うけど。」 蒼太さんが眉間に皺を寄せて俯く。千佳さんはくすりと笑う。それを見て、蒼太さんも表情を緩める。なんというか、二人の雰囲気がイメージとは違っていた。ずっと好きで堪らなかった人を前にしたはずの蒼太さん。その気持ちに答えられずにもう会わないと決めた千佳さん。もっと重苦しい雰囲気になるかと思っていたのに、二人はまるで仲の良い友達のような、家族のような雰囲気だった。 「昔は、こんな感じだったよね。」 ポツリと千佳さんが言う。 「幼馴染だった頃は、こんなふうに普通に話して普通に笑ってた。」 千佳さんの言葉に蒼太さんは頷く。その表情は、穏やかだった。 「指輪、ありがとう。」 そう言って千佳さんは左手をテーブルの上に置く。シンプルな指輪。でもとてもよく似合っていた。ただ、指輪と薬指の間には少し隙間がある。蒼太さんは首を横に振る。 「本当はすぐに渡さなきゃいけなかったんだ。お礼を言われるようなことじゃない。」 今度は千佳さんが首を横に振る。 「十分だよ。私がどれだけこの指輪の存在に救われたか。」 蒼太さんが指輪を隠したことは聞いていた。でも千佳さんの言葉の意味は諮りかねた。 「兄ちゃんは、ちゃんと千佳のことを好きだったと思うよ。」 蒼太さんの言葉に、千佳さんは嬉しそうに目を細める。  千佳さんは、パッと私の方に体を向ける。 「ごめんなさい。蒼太と約束してたんですよね?勝手に押し掛けて本当ごめんなさい。すぐに帰るので。私の名前はご存知でしたよね?」 そう聞かれて、私は頷く。 「蒼太の義理の姉の藤井千佳と言います。」 お辞儀をした千佳さんとしっかりと目が合う。 「あ、えっと···私は辻井百々子と言います。」 そう言って私も頭を下げる。 「すごい可愛い人。やるじゃん、蒼太。」 「···何がだよ。」 私は二人の顔を見比べる。 「辻井百々子さんか。···え、辻井百々子さん?!」 突然テーブルに両手をついて膝立ちになった千佳さん。驚いた顔で私の顔を凝視している。 「辻井、百々子先生···ですよね?」 そう聞かれて初めて気付く。そうか、千佳さんは私が花乃ちゃんの担任だということを知らないのか。 「あ、はい。花乃ちゃんのクラスの担任をさせていただいています。」 千佳さんは座り直して、深々と頭を下げた。 「花乃がお世話になっています。‘百々子先生’の話、よく聞きます。個人懇談に代理で伺ったしおりからも···ていうか先生の家、ここの隣なんですか?花乃の先生が蒼太の彼女って、そんな偶然ある?!」 興奮気味に千佳さんは蒼太さんの方を見る。蒼太さんは苦笑する。 「俺もこの前知った。すごい偶然だよな。」 「本当に!びっくりしちゃった。」 そう言って笑う千佳さんの顔は明るくて、私も思わず笑ってしまった。倒れて入院していたという千佳さんは、もっと弱々しくもっと暗い雰囲気なのだと勝手に思っていた。想像の千佳さんよりずっと明るく、ずっと元気そう。とても、安心した。  千佳さんの笑いがおさまり、一瞬部屋の中がスッと静かになる。蒼太さんの方を見ると、その視線は真っ直ぐ千佳さんに向いていた。千佳さんが蒼太さんの視線に気付き、二人の目が合う。すると、蒼太さんがゆっくりと口を開いた。 「思ったより、元気そうで良かった。」 その言葉に、千佳さんは穏やかに笑う。 「花乃の前で、死ぬまで笑っていたいの。」 落ち着いた声で、そう言う。 「正直、告知された時は絶望したし、今だってふとした瞬間に飲み込まれそうになる時がある。怖くて仕方ないよ。」 私はただ言葉を飲む。 「でも花乃の前では、ちゃんとしていたい。病気なんかに負けない、強い母親でいたい。逆に、花乃がいるから私はこうやって立って笑っていられる。」 凛とした表情。母親になると、こんなにも強くなれるのだろうか。 「入院とか、しなくて良いの?」 蒼太さんは尋ねる。 「出来る限り家で過ごしたい。もちろんちゃんと通院はしてるし、今回みたいな入院もある。しおりには随分負担をかけちゃってるけど。」 「実家に戻る気はないんだろ?」 千佳さんは頷く。 「あの人は···しおりさんは、もうずっと前から千佳と花乃と一緒に生きていく覚悟があったと思う。」 蒼太さんの言葉に、千佳さんはただ真っ直ぐ蒼太さんを見つめる。 「もうあの人は、‘家族’なんじゃないの?」 ほんの少し、千佳さんの瞳が揺れる。そして大きく頷く。  五年前の蒼太さんは、しおりさんの代わりに千佳さんと花乃ちゃんを近くで支える家族になりたかった。でもなれなかった。幼馴染の絆よりずっと深かった千佳さんとしおりさんの関係は、他人から見れば不思議な関係なのだろう。でも千佳さんとしおりさんに育てられた花乃ちゃんを見ていたら、それは決して歪なものではない。そう私は断言出来る。 「五年前は、ごめん。私が弱かったから。」 千佳さんは、蒼太さんに向かって頭を下げる。蒼太さんは首を横に振る。 「もう、迷いはないんだろ?」 千佳さんは顔を上げて頷く。 「私は、‘藤’のことが好き。だから、」 凛とした千佳さんの目が、真っ直ぐ蒼太さんを捉える。 「天国で会えたら、思いっきり愛の告白してくるから。」 笑って、そう言った。その言葉の意味を私は理解出来ないけれど、蒼太さんは笑って頷いていた。 「それから、百々子先生。」 千佳さんは体ごと私の方を向く。 「担任の間だけで良いので、花乃のことよろしくお願いします。」 深々と頭を下げられて私はどうして良いか分からなくなる。 「うちみたいな家族の形があっても良い。そう思って暮らしてはいるんです。でも、父親はいないし母親は病気で、娘を支えてくれているのは血縁者でもない。それを花乃がどう受け止めて、どう向き合っていくのか、···情けない話ですが私も不安なんです。」 ―――しおりちゃんのこと大好きだけど、私んちみたいな家って普通じゃないんだよね? 水筒を取りに来た日の花乃ちゃんが言っていた。家族の形に、何の疑問も抱いていないとは言えない。でも花乃ちゃんは、決して否定的だったわけではない。  私は今、辻井百々子としてこの人の前にいてはいけない。花乃ちゃんのお母さんである千佳さんの前で、私は‘百々子先生’でいなければいけない。 「花乃ちゃんを見ていて思うんです。」 声が震えないように、太股の上で握った拳に力を込めた。 「この子はたぶん、ものすごく愛されて育った子なんだろうなって。」 初めて会った時からずっと、そう思っていた。 「花乃ちゃんの気持ちまでは私にも分かりません。でも、父親がいないことに、母親が病気であることに、他の子の家にはいない親族ではない人がいることに、なんとも思わない子はむしろいないと思います。」 私だってそうだった。どうして私の家は他の子の家と違うのだろうと何度も思った。 「それでも、花乃ちゃんはいつだってまっすぐです。」 花乃ちゃんだって人と比べて迷うことはあると思う。でも、彼女はきっと強い。 「当然のように他人に優しくできることも、自分で決めたことをやり抜くことも、たぶん全部が、無条件で愛されてきた自信が源になっているんじゃないかって思うんです。迷うことももちろんあると思います。それでも、しっかり芯の通った花乃ちゃんを、私は一人の人間としてかっこいいと思ってます。」 私にも、そんな強さがあの頃あったら良かったと思うほどに。 「本当にいろんな家庭があります。だから、千佳さんも不安かもしれないけれどきっと大丈夫です。だって花乃ちゃん、あんなにまっすぐ育っているじゃないですか。あんなに優しい子に育っているじゃないですか。だから、」 大きくなってしまった声を落ち着かせるために大きく息を吸う。吐き出すと同時に千佳さんの顔を見た瞬間、言葉を失った。 「···ありがとう、ございます。」 千佳さんが、泣いていた。ボロボロと涙をこぼして。それを右手で拭いながら、千佳さんは何度もお礼を言う。 「えっと、あの、····」 どうしていいか分からず狼狽えていると、蒼太さんがくすりと笑う。 「あー、百々子先生が花乃ちゃんのお母さん泣かせてるー!」 小学生男子のような口調でそう言う蒼太さんの瞳も、わずかに滲んでいる気がした。笑っているのに、私の視界も霞んでいく。 「だから、花乃ちゃんとたくさん笑って過ごして下さい。」 ―――私にできることって、何もないのかな。 水筒を忘れた日、花乃ちゃんが言っていた。お母さんのために何かしたいと願う花乃ちゃん。今度話そう。花乃ちゃんがお母さんのために出来ること。もしかしたら、もう花乃ちゃんは知っているのかもしれないけれど。  マンションの下まで、千佳さんを送っていく。車で送って行こうかと言う蒼太さんの申し出を千佳さんは断った。 「自分の車で来たから大丈夫。あっちのコインパーキングに停めてあるの。」 「昨日まで入院してたんだろ?」 「もう退院してるから大丈夫。」 心配そうな蒼太さんを他所に千佳さんは笑う。 「百々子先生、今日は本当にありがとうございました。」 深々と頭をを下げられて、私も同じように頭を下げる。ほぼ同時に頭を上げると、目が合った。千佳さんは微笑む。 「‘百々子ちゃん’、蒼太と幸せになってね。」 今、千佳さんの目に映る私は先生ではない。 「···あ、え、はい。」 なんて答えれば良いのか分からないまま返事をすると蒼太さんが隣で笑う。 「結婚式あげるなら私が元気なうちによろしくね。」 そう言われて私は千佳さんと蒼太さんの顔を挙動不審に見比べる。 「分かったよ。」 涼しい顔で蒼太さんはそう答える。 「···?!!!!!」 驚き過ぎて言葉にならない。千佳さんが声を出して笑い出す。 「じゃあまたね。」 手を振って歩いていく千佳さんの後ろ姿を見送りながら、私は隣に意識を集中させる。やがて千佳さんの姿が見えなくなる。何も言わない蒼太さん。私もどうしたら良いのか分からない。すると手の甲がそっと触れて、優しく手を繋がれた。みるみる体が熱くなる。手汗がやばい。 「ありがとう、百々。」 いつも通りの穏やかな声で蒼太さんは言う。 「会ってみて良かった。」 「···そう、ですか。」 「結婚、本当にする?」 心臓がバクバクと音をたてている。 「···千佳さんのことが好きなんじゃないんですか?」 嫌味っぽく言うと蒼太さんがくすりと笑う。 「千佳は家族だから。」 顔を上げてその横顔を見る。 「家族が病気になったら悲しい。家族にはずっと元気でいて欲しい。千佳に対して思っていたのはそれだけだよ。」 ゆっくりとこちらを向いた蒼太さんと目が合う。 「百々が好きだよ。」 初めて言われた言葉に、私は下唇を噛む。 「五年間、そばにいてくれてありがとう。」 眉間に力を入れる。 「百々が笑うと、気持ちが明るくなるんだ。だから、」 もう、ダメだ。 「ずっと一緒に笑って生きていこうよ。」 勢いよく涙があふれ出す。蒼太さんに、ずっと笑っていて欲しいと思った。そこに私がいなくても。でも、一緒に笑っていられるならそんなに素敵なことはない。私は、この人のそばにいたい。 「はい!」 返事をすると、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔のまま抱きしめられた。
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