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お母さんとお父さんとしーちゃんは、高校の同級生だったらしい。だからしーちゃんも、しーちゃんがうちで暮らし始める前に死んでしまったお父さんのことをよく知っている。お父さんのことを名前ではなく‘藤’と呼ぶお母さんと、‘藤井くん’と呼ぶしーちゃん。二人がお父さんの話をしている姿はいつも、クラスの女子が男子の話をしている時のようななんとも楽しそうな雰囲気だった。
二人が喧嘩している所は一度も見たことがない。いつもニコニコしているのはしーちゃんで、しーちゃんを前にするとお母さんも私も笑ってしまう。学校であった些細な嫌な出来事も、まぁいっかと思えてしまう。怒ったり叱ったりするのはお母さんの役目で、しーちゃんは基本的に甘い。しーちゃんが怒るところをあまりにも見せないから、前に尋ねたことがある。
―――しーちゃんって嫌なこととか怒りたくなることってないの?
あの時もしーちゃんはニコニコ笑っていた。
―――お家の中ではないかなぁ。外で嫌なことがあっても、千佳ちゃんと花乃ちゃんの顔見たら忘れちゃう。
あれだけ美人で性格も良いしーちゃんが、恋人も作らずに仕事が終わるとまっすぐ家に帰ってくる。遊びに行くのも外食をするのも、全部私とお母さんが一緒だった。私はしーちゃんの言葉を鵜呑みにして、私とお母さんのことが大好きなのだと思っていた。
―――自由にしてあげなさい。
おばあちゃんの言葉がずっと頭から離れない。本当は、もっと自由にいろいろなことをしたかったのかもしれない。私とお母さんの存在が、しーちゃんを縛っていたのかもしれない。
―――花乃ちゃん、大好き。
何度もそう言ってくれたしーちゃん。その言葉を素直に信じれば良いのに。そうすればこんなに苦しい気持ちにならないのに。
お母さんさんがいなくなって一ヶ月半が経つ。まだ秋の終わりだった季節はもうすっかり冬に変わった。
私が中学生になるまで生きられないかもしれないと言っていたお母さん。でも、小学校の卒業式も中学校の入学式もお母さんは来てくれた。暑い夏が終わった頃、急激に体調が悪化して、それからはあっと言う間だった。
最期は病院だった。看取ったのはしーちゃんと私。泣いている私の手を握って、しーちゃんはそばにいてくれた。それからおばあちゃん達が病院にやって来て、気付いたらしーちゃんは病室からいなくなっていた。
お葬式の喪主はおじいちゃんだった。親族席にしーちゃんの席はなくて、大河たちと同じように一般参列としてそこにいた姿に違和感を覚えた。でも私はその場に立っているだけで精一杯だった。しーちゃんがどんな顔をしてそこにいたのか、全然思い出せない。
思い返せば、しーちゃんはずっとそうだった。家族だと思っているのに、おばあちゃん達に受け入れてもらえないしーちゃんのことを、お母さんも私も守ってあげていなかった。しーちゃんは何も言わなかった。ニコニコ笑ってそばにいてくれるしーちゃんのために、私は何かしてきただろうか。おばあちゃんたちに疎まれているしーちゃんのために、何か出来ることはなかったのだろうか。目の前の現実から目を背けたまま、都合よくしーちゃんと居続けることはたぶんもう出来ない。
あっという間にやって来た日曜日。何故か大河から、‘そっち行こうか?’と連絡が来たけれど断った。大河が来た所できっと何も変わらない。
しーちゃんは普段通り、庭に洗濯物を干したり掃除をしたり慌ただしく家の中を動き回っている。でも今日はジャージじゃない。スウェットでもない。黒のパンツにベージュのニット。出掛ける時とも、仕事の時とも、家にいる時とも違う。そのしーちゃんの格好が、今日がいつもとは違う日なのだと言っている。
「あれ、曇ってきちゃった。」
洗濯物を干したばかりの庭を眺めながらしーちゃんは言う。
「天気予報見なかったの?今日午後から雨らしいよ。」
「本当に?朝あんなに晴れてたのに。」
残念そうにそう言って、しーちゃんは覗いていたカーテンの隙間を閉じる。
「まぁいっか。雨が降ってくるまで外で。」
おおらかというか大雑把というか、しーちゃんは焦ることがあまりない。例えこのまま気付かないうちに土砂降りになってしまったとしても、‘もう一回洗おうか’ときっと笑って言うだけだ。
外で、車の音がした。リビングの窓から外を覗くと、駐車場におばあちゃんの車が入って来る所だった。
「しーちゃん、おばあちゃん来たよ。」
カーテンを閉めて、キッチンにいるしーちゃんにそう言う。
「うん、ありがとう。」
普段と変わらないしーちゃん。不安になっているのは私ばっかり。ほんの少しでも、しーちゃんが不安そうにしてくれていたら、おばあちゃんが来るのを嫌そうにしてくれていたら、私の不安は軽くなったかもしれないのに。だって、私が不安に思っていることはおばあちゃんが来ることじゃない。しーちゃんが、私と離れるという選択をしてしまうかもしれないことが不安なのだ。
インターフォンが鳴る。心臓がドクンと大きな音をたてる。しーちゃんが応答しようとしたインターフォンの前に先に立ち、通話ボタンを押す。
「おばあちゃん、今開けるね。」
しーちゃんが何か言う前に通話を終わらせ、玄関へ向かった。
ドアを開けるとおばあちゃんが立っていた。
「あれ、おじいちゃんは来なかったの?」
「今日は私一人よ。またおじいちゃんには会いに来てやってちょうだい。」
そう言って、おばあちゃんは私に紙袋を渡す。お母さんが好きだった、ケーキ屋さんの紙袋だった。
「こんにちは。」
後ろから聞こえたしーちゃんの声。私は振り返って、しーちゃんとおばあちゃんの顔を交互に見る。
「···こんにちは。お葬式の時はどうもありがとうございました。」
おばあちゃんは丁寧に頭を下げる。それがとても他人行儀で、お腹の奥がザワザワした。
「しーちゃん、おばあちゃんに貰ったよ。」
わざと明るい声を出して、しーちゃんに紙袋を差し出した。
「ありがとうございます。」
しーちゃんも丁寧に頭を下げる。
「どうぞ。」
頭を上げたしーちゃんがおばあちゃんをリビングへ案内しようとする。おばあちゃんは一瞬何か言いたげな顔をしたけれど、黙ったまま靴を脱いで廊下を歩き出す。私はおばあちゃんの斜め後ろを、二人の背中を見比べながら歩いていく。
リビングに入って、しーちゃんはおばあちゃんをダイニングテーブルに案内した。おばあちゃんは何も言わずに、お母さんが使っていた椅子に座る。しーちゃんはキッチンに向かう。たぶんお茶の準備をしているのだろう。私は閉めた扉の前で、どうするわけでもなくただじっと立っていた。
「花乃ちゃん、」
おばあちゃんが、私を呼ぶ。
「少しの間、自分のお部屋にいてくれる?」
提案ではない。おばあちゃんの瞳は、私にこの部屋から出て行けと訴えている。
「どうして?」
「後で、ちゃんと呼ぶから。」
「でも、」
「花乃ちゃん、」
「私も一緒に、」
「花乃ちゃん。」
食い下がってみたけれど、おばあちゃんが折れる気配はない。キッチンにいるしーちゃんの方に視線を向けると目が合った。困ったように笑うしーちゃんが、小さく一度だけ頷く。不安しかない。でも、出て行くしかなさそうだった。
リビングの扉を開けて出て行こうとした時、しーちゃんがお盆に湯呑を乗せてキッチンから歩いて来た。離れ難くて、リビングと廊下の狭間で立ち止まる。でもしーちゃんもおばあちゃんも、もう私の方を見てくれはしなかった。
静かに扉を閉めて、階段へ向かう。廊下を進んで階段の一番下まで来たけれど、どうしてもこれ以上足が進まない。胸騒ぎと、心臓の高鳴りが止まない。苦しくて、これ以上進めない。リビングから微かに椅子を動かす音がした。きっとしーちゃんが椅子に座ったのだろう。私のいないあの場所で、あの二人は何を話すつもりなのだろう。
―――おばあちゃんたちと暮らさない?
おばあちゃんの中で、あの言葉がもう決定事項だったとしたら?
―――血の繋がりもない他人なの。
そんな酷い言葉を、しーちゃんに向けて発してしまったら?
―――もう、彼女のことを自由にしてあげなさい。
しーちゃんが、その‘自由’を受け入れてしまったら?
怖い、怖い、怖い。
指先が恐ろしく冷えていき、足が震えた。二階へは行けない。私はゆっくりと来た道を引き返す。
「病気の娘をずっと支えてくれたことには感謝しています。本当にありがとう。」
扉の横に立つと、おばあちゃんの声が聞こえた。
「いえ、お礼を言われるようなことは何も···」
「でもね、」
おばあちゃんの声が少し大きくなる。
「本当なら、親である私たちがしてあげたかった。涼也くんがいなくなってからの千佳と花乃の時間を、私たちが共有したかった。そう出来るものだと思っていた。···なのに、あなたが突然すべて奪っていったわ。」
しーちゃんは何も言わない。聞いたことのないおばあちゃんの声色に、私は怯える。いつも優しいおばあちゃん。でも、しーちゃんに対しては違う。
短い沈黙の後、おばあちゃんが口を開く。
「花乃を、私たちで引き取りたいと思っているの。」
しーちゃんはまだ何も言わない。
「あなたと花乃は血の繋がりも何もない。」
心臓が、痛い。
「あなたは器量も良いし、これからきっと良い出会いもあるでしょう。」
ねぇ、しーちゃん。
「それなのに、‘死んだ友人の娘’と二人で暮らしていくだなんて、そんな馬鹿なことおやめなさい。」
ねぇ、しーちゃん。
「私たちが花乃を引き取ることで、あなたは自由になれる。」
どうして何も言わないの?
「千佳がいなくなってもうすぐ二ヶ月ね。こうなることをあなたも考えなかったわけではないでしょう?」
‘嫌だ’って、‘離れたくない’って、どうして言ってくれないの?
「しおりさん、」
ねぇ、しーちゃん。
「花乃を、家族である私たちに返して下さい。」
私は、しーちゃんの家族ではなかったの?
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