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逃げてきてしまった。しーちゃんが何か答える前に。今日まで何も言わなかったしーちゃんにじれったさを感じていたのに、答えを聞くのが怖かった。聞いてしまったら、終わってしまうかもしれない。ただ、怖かった。
お母さんともしーちゃんともよく遊びに来た公園。一人になりたい時、私はここにやって来る。お母さんが病気だと知った時も、その後も何度か苦しくなる度に時々こうやってこの公園にやって来た。帰りが遅くなると、しーちゃんが公園の入り口まで迎えに来てくれていた。私が苦しい時、しーちゃんはすぐに気付いてくれる。家に帰ると、おいしいご飯が用意されている。ニコニコ笑うしーちゃんを見て、私の心は折れずにまた前へ進めるようになる。しーちゃんがいなかったら、私はきっとお母さんの死に向き合うことが出来なかったと思う。
冷たい雨が降る冬の公園には、私以外誰もいない。雨に打たれながら公園の中を進み、一番奥にある東屋の中に入った。
どれくらい経っただろう。時計のない公園。時間の分かるものは何もない。
「何やってんだよ、花乃。」
突然、ザリっと言う靴音と共に降ってきた声。顔を上げると傘を閉じながら東屋の中に入ってくる大河と目が合った。
「だから、‘そっち行こうか’って言っただろ。」
紺色のダウンジャケットを着た大河が近付いてくる。どうしてここに大河がいるのか分からない。
「なんでいるの?」
「いや、人んちの前を傘もささずに全力疾走してる奴見かけたら気になって追いかけるだろ。」
この公園に来るためには大河の家の前を通らなければならない。見られていたとは思わなかった。恥ずかしさが込み上げる。でも何にせよ、今は放っておいて欲しかった。大河は自分のダウンジャケットを脱いで、上着なしで外に飛び出してきた私に掛けようとする。そういうことも、今はしないで欲しかった。
「大河、関係ないじゃん。」
伸びてきた大河の手をダウンジャケットごと払いのけた。
「あるよ。」
臆することなく大河は私に近付く。
「ないよ。」
「ある。」
そう断言してくる大河。
「もし花乃がしおりちゃんと住まなくなって、ばあちゃん家に引っ越したら一緒に学校行けなくなる。」
あまりにも真剣な顔で大河がそう言うから、私は何も言えなくなった。
「中学校区変わるだろ。休みの日以外毎日ずっと会ってたのに、会えなくるんだぞ。良いのか?」
保育園も一緒。小学校の時も、登校班のない学校だったから朝も帰りもずっと大河と一緒だった。
「俺は最悪、会いに行こうと思えば会いに行けるから良いよ。でもしおりちゃんは?会えなくなるかもしれないんだぞ?」
胸が、きゅっと痛くなる。
「花乃が出て行った後、しおりちゃんが今の家に住むか分からないじゃん。元々は‘藤井’の家なんだから。しおりちゃんがもっと離れた場所に引っ越したらどうするんだよ。」
大河の声が大きくなる。
「しおりちゃんに会いに行くのを、ばあちゃんたちが快く送り出してくれると思うのか?しおりちゃんがばあちゃん家まで会いに来てくれると思うのか?」
うるさい。
「なんで言えないんだよ!しおりちゃんといたい、って言えば済む話だろ!」
うるさい。
「こうやって逃げてる間に、しおりちゃんとばあちゃんが勝手に結論出したらどうするんだよ!」
うるさい。うるさい。うるさい。
「···―――分かってるよ!!」
立ち上がって、大河に負けないくらい大きな声を出した。
「分かってるよ、そんなこと。大河に言われなくたって分かってる!」
泣いてしまわないように必死に涙を堪えた。
「でもそんな簡単に言えるわけない。しーちゃんにはしーちゃんの人生がある。しーちゃんと私は本当の家族じゃないんだもん!」
―――私たちが花乃を引き取ることで、あなたは自由になれる。
おばあちゃんの言葉が頭から離れない。大河の顔を見ることが出来ない。俯いて目を伏せたまま、私はただ喚いた。
―――‘死んだ友人の娘’と二人で暮らしていくだなんて、そんな馬鹿なことおやめなさい。
苦しい。私としーちゃんの関係はそんなものなのだろうか。しーちゃんにとって私は、‘死んだ友人の娘’?しーちゃんがこれから生きていく上で、私の存在は足枷にしかならないのだろうか。そう考えたら、苦しくて苦しくて堪らない。
「しーちゃんが、本当は一人になりたいって思ってたらどうするの?!自由に生きたいって思ってたらどうするのよ!」
「うるせぇ!!」
大きな大河の声に、驚いて顔を上げた。目が合った大河の顔は怒っているように見えた。唇を噛んで、その大河の顔を睨むように見つめる。すると大河が大きく息を吸う。
「俺は、花乃が好きだ。」
大河の言葉が、雨の音に溶けていく。何て言ったのか理解するまでに時間が掛かった。
「なんで今、」
「花乃のことが好きだから、ばあちゃん家に引っ越しなんかして欲しくない。今のまま、しおりちゃんとあの家に住んでいて欲しい。」
大河の顔は真剣だった。
「好きだから、毎日でも顔が見たいし声も聞きたい。だからばあちゃん家になんか行くなよ。」
「そんなの、大河が決めることじゃ···」
「分かってる。決めるのは花乃だろ。」
大河が一歩近付いてくる。
「俺が何言ったって、決めるのは花乃だ。だったらしおりちゃんも同じなんじゃないの?」
雨の音が大きくなる。
「花乃が何言ったって、しおりちゃんはしおりちゃんで結論出すんだろ?だったら、」
近付いた大河が、私の両腕を掴む。
「好きな人に‘好きだ’って言って何がいけないんだよ。好きな人に‘一緒にいたい’って言うことの何がダメなんだよ。」
大河の手に力が入る。痛いほど強く掴まれた腕が、熱を帯びていく。
「花乃が言わなかったら、誰が花乃の気持ちを分かるんだよ!花乃がどう思ってるか分からないまま不安なのは、しおりちゃんも同じなんじゃないのか?」
―――花乃ちゃん、大好き。
しーちゃんの笑顔が浮かんだ。ダメだ。もう堪えられない。我慢していた涙がポロリとこぼれた。
「···だって、」
「‘だって’じゃねぇよ。おばさんが死んだ時、何の後悔もなかったのか?言いたかったこととか、やりたかったこととか、何にもなかったのか?」
さっきよりも落ち着いた大河の声が胸に刺さる。私は泣きながら首を横に振る。お母さんは卒業式も入学式も来てくれた。でももっといろんなことをしたかった。言いたかったことも、してあげたかったことも山ほどある。
「このまましおりちゃんと離れることになったとして、何にも後悔しないのか?」
私は首を横に振り続けた。きっと、後悔しか残らない。お母さんが死んでしまった時よりもきっと、途轍もなく大きな後悔がずっと残るのだと思う。
「だったら逃げんな、花乃。」
腕を掴んでいた手が離れた瞬間、その温かな手が両頬に触れた。動かしていた頭の動きを止められて、目の前には大河の顔がある。
「大丈夫。しおりちゃんは花乃のことが大好きだから。」
優しい顔と声。
「まぁ俺の方が、花乃のこと大好きだけどな。」
そう言って、照れ臭そうに笑う。その顔を見て、思わず笑ってしまう。涙でぐちゃくちゃの顔のまま、ふふっと声が漏れる。大河が頬に触れていた手で私の涙を拭う。加減しているのだろうけど、少し痛い。
「···―――」
遠くで、人の声がした気がした。雨の音ではっきりとは聞こえない。
「···花乃ちゃん!!!」
雨の音に混ざって聞こえた声。
「しーちゃん···?」
私は大河から離れて、東屋の中から声の主を探す。
「花乃ちゃん!」
公園の入り口の方から、傘をさして走ってくる。黒のパンツに、私が選んであげたライトグレーのコート。遠目からでも綺麗なその姿は見間違えるはずもない。近付いてくるしーちゃんの姿に安心している反面、まだ怖くもあった。会ってしまったら、話をしなければいけない。隣に並んだ大河がそっと私の手を握る。でも、一瞬握っただけでその手は離れて行く。
「何しに来たんだよ。」
東屋の入り口ギリギリに立った大河が、近くまで来たしーちゃんに言う。驚いた顔をしたしーちゃんが立ち止まる。足元はずぶ濡れだった。
「ヘラヘラ笑ってばあちゃんの機嫌取りながら、花乃を追い出す計画の話は終わったのか?」
「ちょっと大河、」
あまりにも悪意に満ちた言い方。思わず大河の腕を掴むと、軽く振り払われた。
「で、花乃に出て行けって言いに来たのか?」
たぶん大河はわざと言っている。でもしーちゃんの方を見るのが怖かった。しーちゃんはどんな顔をしているのだろう。振り払われた右手に視線を向けたまま、私は動けなくなる。
「···違う!」
しーちゃんの声。雨に負けそうなその声は、とても弱々しかった。
「何が違うんだよ。」
雨にも負けない大河の大きな声。
「四十近くにもなって、しなきゃいけないことの順番も分かんねぇのかよババア!」
驚いて顔を上げる。それは言い過ぎ。思わず大河の背中を叩くと無言で睨まれた。私も大河を睨み返す。大河はプイっと顔をそらしてしーちゃんの方に向き直る。
「今日、ばあちゃんたちが何をしに来るか分かってなかったわけじゃないんだろ?」
大河越しに見えるしーちゃんは俯いていた。傘ではっきりと顔が見えない。
「‘分かりました、はいどうぞ’って花乃を差し出すつもりだったのかよ。」
「···違う。」
「大人だけで、花乃をどうするか決めるつもりだったのかよ。」
「···違う。」
しーちゃんの声が震えている。
「事前に花乃と話をしなかったのは、そういうつもりだったからなんだろ!」
「···違うって言ってるじゃない!!」
その怒鳴るような大きな声が、本当にしーちゃんのものなのかすぐに理解出来なかった。怒ったことも、怒鳴ったこともないしーちゃん。いつもニコニコ笑っていたしーちゃんが、見たことのない顔をしてそこに立っていた。目を逸らせずにいると、ふと視線が絡まる。しーちゃんの顔が、悲しげに歪む。
「···怖かったのよ。」
ポツリと、そう言う。
「花乃ちゃんが、おばあちゃん達の所へ行っちゃったらどうしようって。」
震えているしーちゃんの声。その声を聞くだけで胸が苦しくなる。
「千佳ちゃん···花乃ちゃんのお母さんとは、一緒に暮らす約束をしてここまでやって来た。でも、花乃ちゃんとは違う。‘お母さんの友達’である私の存在に、疑問を抱いていたことも気付いてた。だから、」
しーちゃんの目から涙がこぼれた。
「おばあちゃん達が迎えに来た花乃ちゃんに、‘行かないで’なんて言えなかった。言えば、優しい花乃ちゃんは本心を隠して私と一緒にいてくれるかもしれない。でもそれは、私がしたかったことじゃない。」
「···しーちゃんがしたかったこと?」
しーちゃんがゆっくりと頷く。
「私は、千佳ちゃんと花乃ちゃんにずっと笑顔でいて欲しかった。だから、花乃ちゃんには花乃ちゃんの望んだ道を選んで欲しい。」
そうか、しーちゃんも待っていたのか。
「ごめんね。だから、」
私が、しーちゃんといたいと望んでいることを、私の口から聞きたかったのか。
「花乃ちゃんを追い出すために、今日まで話をしなかったわけじゃないの。」
私も、しーちゃんを信じれば良かった。
「花乃ちゃんの望んだ道を応援しようって決めてたのに、怖くて···」
ボロボロと涙を流すしーちゃん。その涙がうつったように、私の目からも涙がこぼれる。
「しーちゃん!」
大河の横をすり抜け東屋を飛び出す。雨の中を駆け抜けて、しーちゃんに抱き付いた。雨が傘に当たる音。優しい匂いを、肺いっぱいに取り込んだ。
「私、おばあちゃん家には行かない。」
大丈夫。
「私の家族は、お母さんとしーちゃんだから。」
もう迷わない。
「だからしーちゃん、」
顔を上げて、しーちゃんの顔を見た。
「これからも、一緒にいようよ。」
しーちゃんの目が滲んでいく。
「···うん。」
頷いた拍子に、その涙が私の顔に落ちてきた。
「花乃ちゃん、」
そういえば、しーちゃんが泣く所を見たのも今日が初めてだった。お母さんが死んだ時も、しーちゃんは少なくとも私の前では、泣いていなかった。
「花乃ちゃん、大好き。」
両腕で抱き締められて、傘が頭上から消える。雨に濡れながらも、私はしーちゃんの背中に回した手を緩めることなくじっとしていた。
「風邪引くぞ。」
雨が止む。大河が自分の傘を私たちの頭上に差し出していた。
「せめてこっち移動しなよ。」
東屋を指差す大河を横目に見た。
「さっきしーちゃんに‘ババア’って言ったこと謝ったらそっち行く。」
そう言うと大河の顔が歪む。
「良いよ、花乃ちゃん。」
しーちゃんが慌てて間に入ろうとする。
「ダメ、無理。しーちゃんに暴言吐くとか本当にやだ。」
大河から顔を背けた。
「···悪かったよ。」
ボソッと声が聞こえる。
「え、何?聞こえない。」
「ちょっと、花乃ちゃん···」
何故かしーちゃんが焦ったような声を出す。
「···すみませんでした!!」
今日で一番大きな声で大河は言う。不本意そうなその表情がおかしくて、思わず笑ってしまう。しーちゃんの腕の中からゆっくり抜けて、大河の方を向く。大河の眉間には皺が寄っている。
「ねぇ、大河。」
「なんだよ。」
「私とずっと一緒にいるつもりなら、私の家族もちゃんと大事にしてね。」
大河が驚いたように目を丸くする。
「ね、しーちゃん。」
振り向くと、しーちゃんが笑っていた。いつもと同じ、ニコニコ笑うしーちゃん。その笑顔があれば、きっと私はなんだって乗り越えられる。
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