私を好きじゃなくても

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私を好きじゃなくても

「ママー···」 赤らんだ顔に半泣きで起きてきた花乃(かの)を見て、ため息が出そうになるのをなんとか堪えた。 「どうした?」 抱き上げると、花乃はしがみついたまま何も言わない。体温が普段よりかなり高いことが全てを表しているのだけれど。  38℃ジャスト。鼻水も咳もないけれど、すこぶる機嫌が悪い。ご飯はもちろん、お茶もジュースも飲もうとしない。パンパンになったオムツを取り替えるのも泣いて嫌がる。そうこうしているうちに七時を過ぎていた。  慌てて病児保育に電話を掛けたけれど話し中で繋がらない。嫌な予感しかしない。私の肩を涙と泣いたことによる鼻水でグチャグチャにしながら花乃は荒い呼吸を繰り返す。何度も掛け直してようやく繋がった電話は、やっぱり嫌な予感を的中させただけだった。  仕事に行くのならもう家を出なければいけない時間だった。花乃の熱は下がるどころか38.4℃まで上がっていた。もう職場に電話を掛けなければ。 「ただいま。」 電話を掛けようとした瞬間、リビングのドアが開いた。 「···おかえり。今日早いね。」 まだ七時半前。 「本当はこの時間が普通なんだよ。いつもがおかしいの。」 夜勤明けは疲れている上に化粧をしていないからとても顔色が悪く見える。 「花乃ちゃん、どうしたの?」 「あー···熱出ちゃってさ。」 「病児保育?」 「アウトだった。」 「そっか。千佳ちゃんもう出掛ける時間でしょ。あ、シャワーしてくるから5分だけ待ってて。」 眠そうな顔で淡々と話すけれど、これはダメなやつ。 「私、休むから。」 「良いよ、別に。一緒に寝とくだけだから。」 リビングのドアを開けて出て行こうとするのを追いかけたけれど、静かに閉められた。 「ちょっと、しおり!」 もう声は届いていない。  娘の花乃は3歳になった。花乃が生まれた頃にはまだ新築だった建売住宅の我が家は、花乃の成長とともに汚れや傷を増やしていく。この家に引っ越して来た時、花乃はまだ私のお腹の中。そして私の隣には夫がいた。でも花乃が6ヶ月を過ぎた頃、夫はいなくなった。  幸い、と言って良いのか分からないけれど、夫の死と同時に家のローンは消えた。生命保険金も入った。私も育休を取っていただけで今の職場で正職員として在職していた。だから金銭的な不安はあまりなかった。お互いの両親も近くに住んでいたし、花乃の世話も喜んで引き受けてくれる。夫がいなくなっても、私達は生きていけた。ただ、心に開いた大きな穴は2年以上経った今も塞がらない。 「本当に良いの?」 「良いの。どうにもならなくなったらちゃんと連絡するから、ね。千佳ちゃんはお仕事行っておいで。」 シャワーを浴びて幾分かさっぱりした表情をしたしおりは、グスグスと機嫌の悪い花乃の頭を丁寧に撫でる。 「花乃ちゃん。しーちゃん眠いから、一緒にゴロンしてくれる?」 花乃はしおりにとても懐いている。ママじゃないとヤダ、そんなふうに駄々をこねることはない。それはとても助かる反面、少し寂しくもある。赤ちゃんの頃からずっと花乃を誰かに預けて仕事に行っているのだから、そんな感情を持つことさえ自分勝手なことは分かっているのだけれど。  車に乗り込むと、マナーモードにし忘れたスマートフォンの着信音がした。ほんの少し、一度だけ大きく息を吸ってスマートフォンに手を伸ばす。 『おはよう。明日出掛けない?河川敷の公園のアジサイが見頃らしい。』 メッセージを見ている間、息が止まっていたことに気付く。浅く数回に分けて息を吐き出し、既読にしたままスマートフォンをバッグにしまう。  そういうのは困る、そう何度も言ったのに。でも彼は、花乃とも会いたいからと言う。そう言われると簡単には拒絶出来なくなる。彼も花乃の家族だから。  結局しおりから連絡は何もないまま、仕事が終わる時間を迎えた。車に乗り込み、ふと後部座席に目をやる。空っぽのチャイルドシート。今日は保育園に寄る必要はない。そう、一度心の中で宣言する。そうしないと無意識に保育園に向かってしまう。 『今から帰るね。』 しおりにメッセージを送る。そしてふと、朝返信をしなかった彼からのメッセージを思い出す。 『千佳ちゃん、お疲れさま。花乃ちゃん熱下がったよ。今テレビ見ながら踊ってる。』   すぐにしおりから返信が来る。花乃の様子が想像出来て、ふっと笑ってしまう。そして、しおりとのメッセージ画面を閉じて、彼からのメッセージを開く。 『花乃熱が出てるから、行けない。ごめん。』 少し、嘘をつく。解熱したばかりでのお出掛けはしたくない。それは本当。花乃がもう、すっかり元気になっているとしても。  嫌いなわけじゃない。でも、彼とは必要以上に会わない方が良い。 『そっか、じゃあまた今度。花乃、大丈夫?』 まだ仕事中のはずなのにすぐに返信が来る。 『うん、すぐに良くなると思う。ありがとう。じゃあまたね。』 それだけ送ってスマートフォンをバッグにしまう。エンジンをかけて車を発進させる。今日は保育園には寄らない。もう一度心の中でそう宣言して、家に向かって車を走らせた。 「ただいまー。」 リビングから花乃の楽しそうな声が聞こえてきた。 「おかえりー。花乃ちゃん、ママ帰って来たよ。」 私の帰宅に先に気付いたのはしおり。しおりにそう言われて、花乃はパタパタと足音を立てながらリビングから顔を出す。 「ママ、おかえりー。花乃ね、もう治ったよ。」 ニコニコと機嫌が良い花乃。確かにすっかり元気そうだった。 「そっか、良かった。しーちゃんの言うことちゃんと聞けた?」 そう尋ねて抱き上げると、花乃は大きく頷く。体温は朝よりずっと下がっていた。 「花乃、ちゃーんとおりこうさんだったよ。」 私の首に両手を回し、ぎゅうぎゅうと抱き締めてくる。熱くはないけれど、温かな体温。この体温があるから私はなんとか生きてきた。花乃のために、折れないように立ち続ける。 「本当にありがとう。しおり、ちゃんと寝れた?」 花乃を抱えたままリビングに入ると、花乃が床に散らかしたおもちゃの真ん中にしおりが座っていた。 「寝れた寝れた。昼過ぎまで花乃ちゃんとぐっすり寝ちゃった。本当は千佳ちゃんの昼休みに1回連絡入れようと思ってたんだけどとっくに過ぎてて。」 そう言って笑うしおりの顔は、朝よりずっと元気そうだった。どれだけ綺麗な顔をしていても、徹夜で働いて帰ってきたくっきりとクマのある顔は見ていて心配になる。 「ママ、ごはん食べよー。」 耳元で花乃は言う。 「昼過ぎにうどん少しとゼリー食べただけだからお腹空いちゃったみたいで。」 しおりは立ち上がる。 「簡単なものだけど作ったから食べよう。千佳ちゃん着替えてくる?」 もはや素敵な嫁だ。 「···何から何まですみません。」 「一緒に住んでるんだから当たり前だよ。」 そう笑ったしおりの顔は昔から変わらない。  しおりがこの家に住むことになった時、私の親も夫の親もあまり良い顔はしなかった。それが分かっていたからなのか、しおりも躊躇っていた。でも、私の中にはほんの少しの迷いもなかった。  しおりと初めて言葉を交わしたのは高校二年生の時。入学した時からその存在は知っていたけれど、たぶんしおりは私のことを知らなかったと思う。その他大勢の中の一人である私と、ハーフのような顔立ちをした飛び抜けて美人のしおり。すらっと伸びた手足にさらさらの髪の毛。友達がたくさんいるタイプではなかったけれど、お高くとまっているわけでもない。後に知ったことだけれど、しおりは重度の人見知りで軽度のコミュ障だった。そしてハーフ顔に見えるけれど、しおりの両親はどこからどう見ても日本人で、健太郎さんと花代さんと言う。ハーフだと疑わずしおりの家に初めて遊びに行った時、玄関で出迎えてくれた両親を見て驚愕したのを覚えている。  同じクラスになってから仲良くなるまでに時間は掛からなかった。こちらから心を開けば、しおりは簡単に心を開いてくれた。千佳ちゃん、としおりに名前を呼ばれると嬉しかった。よくある女子同士のベタベタ、ギスギスした関係とは違う。打算とか嫉妬とか束縛とか悪口とか、そういうものが何一つないさっぱりとした関係。女子同士の付き合いに生じる黒いものが、しおりとの間には生まれない。それがとても心地良かった。  三年生でクラスが分かれてからも、しおりとはよく話をした。一緒に受験勉強をすることもあったし、息抜きと称して遊びに行くこともあった。しおりのことが大好きで、卒業してからもずっと友達でいたいと思った。  でも卒業後、私達は一緒にいることが出来なくなった。  夕飯を食べ終えて片付けをしていると、ピンポーンとインターフォンが鳴った。手を拭きながらモニターに向かう途中で、窓際にいた花乃が明るい声を出す。 「あ、蒼(そう)ちゃんの車だ!」 カーテンをめくり窓に貼り付くようにして暗い外を眺める花乃はとても嬉しそうだ。でも私はその名前を聞いて、モニターに向かう足が止まってしまう。 「マーマー、蒼ちゃん来たよ。はーい、ってして。」 バタバタと走って来た花乃は私にそう言いながら玄関に向かって行く。花乃の後ろ姿を目で追い、モニターの方へ視線を戻す途中でテーブルを拭いていたしおりと目が合った。今自分がどんな顔をしているのか分からないけれど、目が合った瞬間しおりは困ったように笑った。 「私が出ようか?」 優しく、そう言う。返事も、動くことも出来ない私の肩にそっと触れたしおりは、そのままモニターの前に立つ。 「···はい。あ、蒼太くん。ちょっと待ってね。」 玄関に向かうしおり。モニター越しに聞こえた声が、頭の中から消えない。 「わーい、蒼ちゃんだ。」 ガチャリと扉が開く音と同時に花乃が嬉しそうな声を出す。 「こんばんは、蒼太くん。」 「こんばんは。突然来ちゃってすみません、しおりさん。えっと、千佳は?」 私のことは呼び捨てにするくせに、しおりのことはちゃんと‘さん’付けする。 「ちょっと待ってね。千佳ちゃーん。」 しおりは私に心の準備をする時間を与えてくれた。一度大きく深呼吸をして、リビングを出た。 「あ、千佳。」 蒼太が、笑う。 「花乃元気そうで良かった。心配だったから、これ差し入れだけ。」 そう言って手に持っていたビニール袋を差し出す。 「花乃にくれるの?」 蒼太の前で花乃はぴょんぴょん飛び跳ねる。そんな花乃の頭を、蒼太は優しく撫でた。 「花乃にあげるけど、食べるのはママがいいよって言った時だけだぞ。」 ビニール袋を受け取った花乃はその場で中身を確認し始める。 「わーい、ゼリーだ!りんごもある!」 「花乃、玄関で広げないよ。」 そう言うと花乃は出しかけたゼリーを袋の中に戻して、バタバタとリビングに走っていく。 「しーちゃん、見てー!」 リビングから大きな声でしおりを呼ぶ。しおりは一瞬私の顔を見た後で、眉尻を下げて微笑む。 「じゃあ蒼太くん、またね。仕事お疲れさま。」 しおりはそう言ってリビングへ戻っていく。  花乃としおりがいなくなった玄関。リビングから二人の明るい声が聞こえてくる。 「···明日、せっかく誘ってくれたのにごめん。」 ぽつりとそう言うと、蒼太は笑う。 「花乃、体調悪いんだろ?気にしなくていいよ。」 もうすっかり元気だから、こんなふうに罪悪感でいっぱいになるのだろうか。 「突然来てごめん。最近顔見れてなかったからさ。」 前に会ったのは1ヶ月程前だった。 「少し会わないだけで、花乃すごい成長するからね。」 「そうだな。うん、まぁもちろん花乃にも会いたいけど。」 蒼太の声が、少し固くなる。 「俺は、千佳にも会いたいから。」 俯きがちにしていた顔を、思わず上げてしまう。蒼太と目が合う。大きな瞳。真っ直ぐな視線。私は、その顔が苦手だった。 「そういうこと、言われても困る。」 蒼太から目を逸らす。 「うん、ごめん。でも、」 その声も、苦手だ。 「本当にそう思ってるから。」 その真っ直ぐな物言いも、苦手だ。そっくりな顔をしているけれど、あの人はそんなことを私に一度も言わなかった。  黙っている私を蒼太がどんな顔で見ているのか分からない。昔はあんなに仲が良かったのに。いつの間にか、蒼太の前で自然に笑えなくなっていた。 「千佳、」 その声が、苦手だ。 「また連絡するから。」 玄関の扉が開いて、閉まる。顔を上げた時、もうそこに蒼太の姿はなかった。  
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