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「可愛いなぁ。」
座布団の上にコロンと寝転ぶ小さな生き物。まだ手足を動かすだけで、座布団から転げ落ちることもない。
「花乃ちゃん、赤ちゃん見るの初めて?」
百々子先生が、哺乳瓶を持ってキッチンからやって来た。
「うーん。保育園の時に、大河の妹の美空ちゃんを見てるはずだけどあんまり覚えてないんだよね。」
「そりゃそうだろ。俺も美空が赤ちゃんの時なんて写真でしか分かんねぇよ。」
ソファに座っている大河が笑って言う。
「本当に可愛い。私もこんな小さい赤ちゃん見るの初めてかも。」
洗濯物を取り込んで戻ってきたしーちゃんも、赤ちゃんを覗き込むように言う。
「赤ちゃんてこんなに小さいのね。」
とても愛おしそうに眺めるしーちゃんの顔は、綺麗だった。
「これでも大きくなったんですよ。産まれたては本当にもっと小さくて。ふにゃふにゃだし、ずっと泣いてるし、もうなんだこれー!って感じで。」
百々子先生は座布団から赤ちゃんを抱き上げ、その小さな口に哺乳瓶を咥えさせる。一瞬目をカッと開いたかと思うと、心地良さそうな顔になり、やがて目を閉じて必死にミルクを飲み始める。
「よしよし、凛ちゃん。」
百々子先生の顔は、私が知っていた先生の顔とは違う。
「お母さんも、こんなふうに私のお世話してくれてたのかな。」
ポツリとそう言うと、百々子先生と目が合う。
「そうなんじゃないかな。」
優しくそう言われて、心が温かくなる。
「花乃も夜泣きが酷くて大変だったらしいよ。」
大河の隣に座っていた蒼太くんが言う。
「抱っこしていないと寝ないしすぐに泣くから、千佳と兄ちゃんが交代で一晩中抱っこしてた日もあったって。」
「えー、そんな大変だったの?」
赤ちゃんの頃とは言ってもなんだか恥ずかしい。
「赤ちゃんてそんな寝ないの?」
大河が驚いたように言う。
「個人差もあるんじゃないかな。ただ産まれてしばらくは三時間おきに授乳があるから昼も夜も関係ないけどね。」
「マジか。俺の時も美空の時の時も母さん大変だったんたな。」
そう言って立ち上がった大河は、私の隣に並んで床に座る。
「可愛いな。」
百々子先生に抱っこされて一生懸命ミルクを飲む姿は可愛いを通り越してなんだか尊い。
「あとで二人とも抱っこしてあげて。」
百々子先生が嬉しそうに笑う。
蒼太くんと百々子先生が結婚して五年目、待望の赤ちゃんが誕生した。まだ二ヶ月になったばかりの赤ちゃんは、凛(りん)ちゃんという名前の女の子だ。育児休暇中の百々子先生と、しばらくの間リモートワークにしているという蒼太くん。薄っすら目の下にクマを作った二人の顔は、とても幸せそうに見える。
私は、中学二年生になった。今もお母さんとしーちゃんと暮らしたこの家に住み、相変わらず大河と登下校を共にする毎日を送っている。
―――私ね、しーちゃんと一緒にいたい。
おじいちゃんとおばあちゃんに、私はそう言った。血が繋がっていなくても、しーちゃんは私の家族なのだと。母親でもない。姉でもない。友達でもない。しーちゃんとの関係に名前をつけることは難しいけれど、紛れもなくしーちゃんと私は家族だ。
―――おじいちゃんとおばあちゃんのことも大好き。でも、お母さんとしーちゃんと三人で暮らした家から離れたくない。
私にとっては、しーちゃんと共にこの家に暮らし続けていくことに意味がある。
―――私も、花乃ちゃんと一緒にいたいと思っています。
私にもしーちゃんにも、もう迷いはなかった。
―――私たちが二人で暮らすことに、心配も不安もたくさんあるのは承知の上です。それでも私は、千佳ちゃんと涼也くんが大事に育てた花乃ちゃんを、守っていきたい。
そんな自由ならいらない、としーちゃんは私に笑って言った。
―――私の幸せは、花乃ちゃんと一緒に生きていくことです。
しーちゃんのそのまっすぐな瞳が、私は涙が出るほど嬉しかった。
おばあちゃん家には、週末時々泊まりに行ったり、近場の観光地に出掛けたりしている。以前ほどしーちゃんを避けることはしなくなったけれど、そういう時は私だけ。しーちゃんはお留守番だ。でも、出掛けた帰りにおばあちゃんが‘しおりさんに渡して’とお土産を買ってくれることもある。その日の夜、しーちゃんはおばあちゃんにお礼の電話をする。少しだけ緊張した声でおばあちゃんと話すしーちゃんを、こっそり見るのが最近の楽しみになっている。
「赤ちゃん育てるのってそんな大変なんだな。今から徹夜の練習しといた方がいいかな。」
ぎこちない手つきで凛ちゃんを抱っこしている大河が、真剣な顔で言う。大人三人が顔を見合わせた後、吹き出すように笑う。
「大河、十二時まで起きてるのも厳しいんでしょ?」
「今はな。でもそんなことも言ってられないじゃん。」
「ていう赤ちゃん産まれたばっかりの時期って大河は普通に仕事じゃないの?」
「俺も一緒に世話したい。」
「ふーん、そうなんだ。」
「蒼太くんみたいに、リモートとか育児休暇取れるようなとこに就職しないと。な、花乃。」
「え、待って。花乃ちゃんと大河くんって結婚するの?」
何故か百々子先生が口元を両手で押さえながらそう言う。心なしか声が興奮している。
「そうだよ。」「分からないよ。」
大河と同時にそう答え、お互いに顔を見合わせる。
「分からないって、どういうことだよ?!」
「分からないものは分からないでしょ。」
「いや、分かる!」
「意味分かんない。」
「どんな喧嘩だよ。」
蒼太くんが笑う。大河が隣で睨んでくる。私は顔を背ける。
「ついこの前まで赤ちゃんだったのにな。花乃が結婚とか言ってると、俺ちょっと寂しい。」
「ちょっと待って、蒼太くん。私まだ中学生だからね。」
「いや、でもなんか大きくなったなって。」
そう言う蒼太くんの顔はとても優しい。そしてその表情は、写真のお父さんとよく似ていた。お母さんもしーちゃんも、蒼太くんはお父さんと顔がそっくりだと言っていた。だから蒼太くんがこういう顔で私を見る時、不思議と懐かしいような気持ちになる。生きていた頃のお父さんの記憶は一つもないはずなのに。
皆が帰った後、夕飯の準備をしているしーちゃんの横顔をソファから眺めていると、ふと目が合った。
「お腹空いた?」
しーちゃんが笑う。
「大丈夫。何か手伝おうか?」
「じゃあこれ味見して。」
そう言って、しーちゃんは私をキッチンに呼ぶ。私はソファから立ち上がり、キッチンに向かう。
「うん、おいしい。」
「良かった。ありがとう。」
今日はシチューだ。しーちゃんの作るシチューは、野菜がゴロゴロ入っていておいしい。
「凛ちゃん、可愛かったね。」
しーちゃんの横顔に向かって私は言う。
「そうだね。」
私が味見に使った小皿を洗いながらしーちゃんはそう答える。
「ねぇ、しーちゃん。」
「何?」
「しーちゃんは、結婚したいと思わなかったの?」
そう尋ねると、しーちゃんは目を丸くする。そして笑い出す。
「どうしたの、急に。」
笑いながらそう言うしーちゃん。私は真剣に聞いたつもりだったのに。
「だってしーちゃん、美人だし性格も良いし子どもも好きでしょ?絶対良い奥さんとお母さんになるだろうな、と思って。」
「やだ花乃ちゃん。そんなに褒めても何も出ないよ。」
嬉しそうにしーちゃんは言う。でも真面目に取り合ってくれている感じではない。
「もう、しーちゃん!」
しーちゃんの笑いをかき消すように少し大きな声を出した。するとしーちゃんは穏やかに笑う。
「ありがとね、花乃ちゃん。心配してくれて。」
そう言って頭を撫でられる。
「結婚ね。花乃ちゃんと出会う前に、したいなぁと思った時期もあったけどね。」
「結婚したいくらい、好きな人がいたの?」
しーちゃんは頷く。
「まぁでもうまくいかなかった。まだ若かったしね。子どもも好きだけど、絶対に自分で産みたいって思ってたわけでもないし。」
しーちゃんが自分の話をしてくれるのは珍しいことだった。
「千佳ちゃんと花乃ちゃんと暮らし始めたら、結婚も出産も全然興味なくなっちゃった。」
しーちゃんは笑う。
「誰かの奥さんじゃなくても、誰かのお母さんじゃなくても、私には居場所が出来たから。」
私を見るしーちゃんの顔は、いつだって優しい。でも今は、ほんの少し悲しげに見えた。私達と暮らす前のしーちゃんには居場所がなかったのだろうか。しーちゃんのその表情を見て、ふとそう思った。
私は、お母さんとしーちゃんが一緒に暮らし始めた理由を知らない。高校で出会って、仲良くなった。そこから話は飛んで、お父さんがいなくなった後の同居に至る。しーちゃんがどんなふうに生きてきて、お母さんと何があって、どうして私と生きる道を選んでくれたのか、何も知らない。
「ねぇ、しーちゃん。」
私はそっとしーちゃんに抱きつく。
「私は、しーちゃんと一緒にいられて幸せだよ。」
しーちゃんの手が、そっと私の背中に回る。
「うん、ありがとう。」
しーちゃんの昔の話を、聞けばしーちゃんは答えてくれるのかもしれない。でもそこはたぶん私が立ち入るべき所じゃない。私は、しーちゃんとこれから先の未来を作っていくことしかできないのだから。
お母さんとお父さんと私が写る家族写真の隣に、お母さんとしーちゃんと私の三人の家族写真がある。お母さんの病気が分かってすぐの頃に撮った写真だ。その隣には、蒼太くんと百々子先生の結婚式で撮った写真。新郎新婦の隣で、車椅子に乗ったお母さんとしーちゃんと私が笑っている。
―――俺とも写真撮って飾ってよ。
並んだ写真を眺めながら、帰り際に大河が言った。
―――ここは家族写真を飾る場所なの。
そう答えると大河は不満そうな顔をした。
―――じゃあ何年か後だな。
照れもせずに大河は言った。
―――何言ってんの。
そうそっけなく返事をしてみたけれど、大河は笑う。でもいつか、ここに大河と大河の家族と、しーちゃんと私で撮った写真を飾れたらな、と思う。家族の形はまた変わっていくのだろうけれど、そこにいる皆が笑っていられたらいいなと思う。
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