私を好きじゃなくても

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 蒼太は義弟にあたる。元々はただの幼馴染で、よく一緒に遊んだし家族ぐるみで出掛けたことも何度もある。二つ年下の蒼太は、いつだって幼く可愛かった。  いつの間にか私の背丈を越え、いつの間にか‘千佳’と呼び捨てされるようになっていた。昔は‘千佳ちゃん’とあんなに可愛く呼んでくれていたのに。蒼太が大人になるにつれて、蒼太とうまく向き合えなくなっていった。だって蒼太は、蒼太の兄に似過ぎていたから。 「···藤(ふじ)。」 夫の名前が、ふと口から溢れる。正確には名前じゃない。 藤井涼也(ふじいりょうや) それが夫の名前だった。初めて会った時から、私は彼を‘藤’と呼んだ。その時はまだ、彼に弟がいるとは知らなかった。彼を‘藤’と呼ぶことに慣れ過ぎた。だから今でも彼のことを‘藤’と呼び続け、その弟のことは‘蒼太’と名前で呼ぶ。  藤は私の初恋だった。初恋が終わらないまま成長し、他の恋を知らないまま大人になって結婚した。初恋が実った結婚、そう言えば聞こえは良いけれど実際はそんな素敵なものじゃない。たぶん藤は、最初から最後まで私のことを好きだと思ったことはないと思う。それに私も、一度も藤に好きだと言わなかった。言わないまま夫婦になって、言わないまま一人になった。 ―――俺は、千佳のことが好きだよ。 なのに、蒼太は言った。そっくりな顔と声で。藤が一度も言ってくれなかった言葉を、いとも簡単に口にした。 ―――兄ちゃんのこと、忘れなくても良い。 同じ顔の蒼太と一緒にいて、忘れられるわけがない。 ―――結婚してくれなくても良い。でも、千佳と花乃を支えていきたい。  真剣にそう言う蒼太に、私は藤の姿を重ねる。そう言ってくれるのが藤だったのなら、どれ程幸せだっただろう。蒼太を前に、私はただそう思った。  初めて蒼太に好きだと言われたあの日から、私は蒼太に会うことを躊躇うようになった。  花乃を二階の寝室で寝かしつけ一階に下りると、ちょうどしおりがお風呂から出て来た所だった。 「明日は仕事だっけ?」 「うん、遅番。千佳ちゃんと花乃ちゃんはどこか行くの?」 まだしおりの髪はほんのり濡れている。顔に似合わずガサツというか大雑把なしおりは、ドライヤーの掛け方がいつも甘い。 「行かないよ。また熱出ても大変だし。」 そう答えると、しおりは眉尻を下げて微笑む。 「ごめん、玄関で蒼太くんと話してるの聞こえちゃったから。明日、本当はどこか行くつもりだったのかなって。」 私は何も言えず、黙ってソファに座る。しおりはソファの隣に立ったまま。 「···どうかしてるよね。自分の兄の嫁に。」 ぽつりと、そう口にしていた。するとしおりはゆっくりとその場に腰を下ろす。 「藤井くんの弟じゃなかったら、前向きに考えた?」 優しくそう聞かれる。 「分かんない。ていうか蒼太とどうにかなったとして、私どんだけあの顔がタイプなんだって周りから思われるでしょ。」 しおりは笑う。 「確かに、あの兄弟似過ぎだよね。初めて蒼太くん見た時、すごくびっくりした。」 しおりがこの家に引っ越して来た日、手伝いにやって来た蒼太を見た瞬間、しおりの動きが止まった。 「今でもなんだか···蒼太くんの顔を見ると不思議な気持ちになる。」 元々蒼太のことを知らなかったしおりがそう思うのは当然だろう。藤と蒼太どちらも幼い頃から知っている私でさえ、蒼太の顔を見るとまだ苦しくなる。 「千佳ちゃん、」 目が合ったしおりは、悲しげに笑う。 「私のことは、気にしないでね。」 しおりは勘違いしている。私が蒼太に近づかないのは、しおりのせいじゃない。  しおりが寝に行くために先にリビングを出た。私もなんとなく点けていたテレビを切って、ソファにもたれて天井を仰ぐ。 ―――なぁ千佳 藤の声、だと思う。頭の中に浮かぶ、藤のものだと思っている声はもしかしたらもう実際の藤の声とは違っているのかもしれない。 ―――なぁ千佳。明日さ 明日は変わらず来るものだと思っていた。好きだと伝えられないままの結婚生活が、この先も続いていくのだと当然のように思っていた。 ―――なぁ千佳。明日さ、何食べる? 明日は、来なかった。私の誕生日に、藤が料理を作ってくれると約束していた。意外と手先が器用だった藤が時々作る料理はとてもおいしかった。金曜日の朝そう聞かれて、私は「ハンバーグが食べたい」と答えた。藤は、仕事が終わったら材料を買って帰る、そう言って家を出た。でも藤は、もう二度とこの家に戻って来なかった。  テーブルの上に置いてあるスマートフォンを手に取る。LINEを起動し、上から三番目にあったトーク画面を開く。 『花乃、朝熱が出たんだ。でも1日休んだらもうすっかり良くなったみたい。』 そう、入力したメッセージを送信した。すると、テレビ台の引き出しの中で短い振動音がする。持っていたスマートフォンをテーブルの上に置き、テレビ台に近付く。引き出しに手を伸ばしたけれど、指先が震えた。震える指先を何度かこすり合わせるように動かしてから、引き出しを開ける。そこには黒いスマートフォンが一台入っている。  藤がいなくなって二年半が経つ。解約こそしたけれど、家の中でWi-Fiに繋がれた藤のスマートフォンは電話やメール以外の機能を残して存在していた。LINEのアカウントもそのまま。いつか、どこかの誰かが藤の電話番号で新しいアカウントを作ると消えてしまうらしいけれど、二年半が経った今もアカウントだけは藤がまだいるかのように存在している。アイコンは、六ヶ月の花乃と藤のツーショット。抱っこされた花乃は後頭部しか写っていないけれど、花乃の頭で半分隠れた藤の顔は幸せそうに笑っている。藤は、花乃のことをとても大事に、とても可愛がっていた。でも藤は、六ヶ月までの花乃しか知らない。それからお座りをしたりはいはいをしたり、立ち上がったり歩いたり、数え切れない程のことが出来るようになった花乃を、藤は知らない。  意味なんてない。分かっている。でも、ここにはまだ藤が存在している。私のことは良い。でも花乃のことだけは、藤にも伝えたい。毎日花乃がどんなふうに成長していくのか、私の自己満足だとしても伝えたかった。  あの日も、私はこんなふうに藤にメッセージを送った。藤のスマートフォンを手に取り、メッセージを開く。私のスマートフォンには既読がつく。藤が、読んでくれたような気持ちになる。虚しさを伴うけれど、それがもう日課だった。藤のスマートフォンをしまおうとした時、再び短い振動音がした。私のスマートフォンからはもう何も送っていない。待ち受け画面にLINEの通知が表示される。 ‘河合しおり’ 送り主の名前を見た瞬間、自分の鼓動が大きく速くなるのが分かった。 『今度そっちに行こうと思うんだけど、会えるかな』 通知と共に表示されたメッセージ。一度見たその短い文を、二度、三度と何度も繰り返し読んだ。そして気付いた。しおりも、私と同じだと。  藤がこの世にいないことを、しおりは知っているはずだった。それを知っていて、敢えて藤宛てにメッセージを送ってきた。しかもしおりは、‘藤がいる場所’に行こうとしている。  藤のスマートフォンを勝手に使ってメッセージを送るのはルール違反だと思っていた。過去にそうしたことがあるのは、藤の高校三年生の時のクラスのLINEのグループに藤の葬儀についての連絡をした時だけ。今は、そういう状況ではない。分かっていた。それでも私はいても立ってもいられず、そのメッセージを開いて返信をした。 『久しぶり』 たった四文字。とにかく早く何か返さなければ、そう思った。返信が来るはずのない藤にメッセージを送ること、それは否定も肯定もされない自己満足の世界。YESともNOとも言わない藤がいる場所に、しおりはきっと行ってしまう。直感でそう思った。だからもし、しおりがこのメッセージが送る相手を間違えただけのものだったとしても構わなかった。 『本当に久しぶり 8年ぶりかな』 すぐに返信が来て少し安心した。八年。藤としおりが別れて八年経っていたことに驚いた。ということは、私はしおりと九年会っていない。人生における出会いの中で、しおり程居心地が良く大好きった友達は他にいなかったのに。
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