私を好きじゃなくても

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 就職をして、私は一人暮らしを始めた。とは言え、実家からそれほど離れていない。そんな私の暮らす1DKの部屋に、藤は時々やって来た。本当に1ミリも私のことを女だと思っていない藤は、お酒やおつまみを買ってきては平気な顔で深夜まで居座っていた。彼女がいても、いなくても。友達だ、と完全に割り切っているのは藤だけ。私も、藤の彼女もきっとそんなふうには割り切れない。 ―――この前、別れた。 藤は言う。 ―――なんだかんだ、千佳といるのが一番楽なんだよな。 笑って言う。 ―――俺達、付き合ってみる? 笑って、冗談を言うみたいにそう言った。苛ついて、苦しくて、体が熱くなった。ヘラヘラと笑う藤は、ひどく酔っていた。朝になれば、今の発言も忘れてしまっているに違いない。そんなの、許さない。私はどれくらいの時間をこうやって藤に縛れながら過ごさなければいけないのだろう。もう、嫌だ。友達でいられなくたって良い。私は、今を変えたい。そう強く思った。  後になって思えば、私も酔っていた。きっと冷静じゃなかった。だから、床に置かれた藤の手に自分の手をそっと重ねて、私からキスをした。そこからはもう酔った藤の思うまま、体を重ねた。キスだって、セックスだって初めてだった。緊張して、怖くて、恥ずかしくて、とにかく必死だった。 ―――もしかして千佳、初めて? 一度だけ藤は気遣うようにそう聞いた。私は震えてしまいそうになる声をなんとか絞り出して、笑ってみせた。 ―――そんなわけないでしょ。 言ってしまえば良かったのに。ずっと藤のことが好きだったから、藤のことだけが好きだったから、藤以外の人と触れ合いたいと思ったことすらない、と。藤は今、好きでもない私に一時の欲で触れている。しおりより好きになれなかった女の子達に何度も触れたその手で。···私も、そっち側だ。そう思ったら涙が出そうになった。涙も、怖さも、痛みも、全部必死に堪えて藤にしがみついた。好きなのに。ずっと好きだったのに。苦しくて悲しくてたまらなかった。  生理が来ないことに気付いたのは、その日から二ヶ月程後のことだった。元々不規則気味だったけれど、こんなに来なかったことはない。妊娠検査薬で陽性が出た時、頭の中は真っ白だった。  藤に、言えば良いのか分からない。言うとして、何て言うのだろう。妊娠した。それで?産むの?産まないの?藤にどうして欲しいの?私のことを好きではない藤に。あの日から、一度も会っていない藤に。私は何か言うことが出来るの?  生理が来ないこと以外、私の体に起こっているはずの変化は分からない。お腹にそっと当てた手にも、何も感じない。確かに避妊はしなかった。でもたった一度で、妊娠するなんて思いもしなかった。  そんな時、掛かってきた電話は藤ではなく、蒼太だった。 ―――千佳、俺来週帰省するけど、千佳も実家来ない? 少し離れた大学に通う蒼太は時々自分の帰省に合わせて電話をくれた。一人っ子の私にとっては、蒼太は可愛い弟のようなもの。藤とそっくりな顔と声をしているのに、性格は全然違う。昔から落ち着いていて優しく、とても穏やかだった。 ―――蒼太ぁ··· その声を聞いて、張り詰めていたものが切れてしまった。電話越しにわんわん泣く私の話を、蒼太はゆっくり聞いてくれた。雨が降り出した土曜日の夕方、一通り話を聞いた蒼太は優しく言った。 ―――千佳、大丈夫だよ。今から、そっちに行くから。  本当は、蒼太の気持ちを私は知っていた。蒼太は優しい。だから私は甘えてしまった。  夜遅くにやって来た蒼太は、疲れた顔をして笑っていた。藤と同じ顔。でも藤はこういう表情はしない。 ―――少し、落ち着いた? 社会人の私と大学生の蒼太。二歳違うはずなのに、蒼太の方が大人だった。 ―――明日、兄ちゃんに会おう。ちゃんと、一緒に悩まなきゃダメだ。 ―――でも藤は私のことなんて、 ―――それでも、ちゃんと一緒に考えなくちゃ。 私の腕を掴む蒼太の手に力がこもる。 ―――千佳、大丈夫だから。 蒼太の瞳の奥が揺れていたのは、見えないふりをした。  次の日、蒼太に呼び出された藤が私の家にやって来た。あの日の翌朝、後ろめたそうに帰って行った時のままの顔で藤は私の前に座る。藤が座ったのと同時に、蒼太は出て行った。 ―――妊娠、したの。 藤の顔は見ずに、太腿の上で握りしめた拳をじっと見ていた。 ―――まだ病院にも行ってない。私、どうすれば良いのか分からなくて。 じわじわと溢れそうになる涙を堪えながらそれだけ言った。 ―――千佳、 藤の声。 ―――千佳が嫌じゃないなら、結婚しよう。 思わず顔を上げた。藤は真っ直ぐに私を見ていた。 ―――結婚しよう、千佳。 その覚悟を決めたような顔の藤を、今でも覚えている。妊娠させた責任を、藤は取った。好きだから結婚するわけじゃない。世間一般で言う‘デキ婚’とも違う。付き合ってすらなかった。好き同士でもなかった。ただ、子どもが出来た。それだけの結婚だった。  それからトントン拍子に話は進んでいき、お互いの両親に報告しすぐに籍を入れた。両親達は私達の結婚をとても喜んだ。入籍より妊娠が先だったことも咎められなかった。藤のお母さんは、私が藤と結婚してくれて本当に嬉しいと言ってくれた。私は、喜んでくれる人達の前でなんとか笑い続けた。私達の結婚はそんなに喜ばしいものではない。でもそんなふうに思っているのは私だけ、そう思う程に藤の態度は自然だった。  藤が私の一人暮らしの部屋に転がり込む形で結婚生活が始まった。元々実家暮らしだった藤は必要最低限の物だけを持ってやって来たけれど、一人暮らしのために借りた部屋は二人で住むには狭かった。それまでの関係と何も変わらない藤の態度は、楽だけれど苦しかった。あの日の行為なんてまるでなかったかのように、藤は私に触れてこない。体調はよく気遣ってくれるし、実家暮らしだったくせに家事もよくやってくれた。でも、男女の関係ではない。友達同士が一緒に住んでいるような距離感。私ばかりが藤のことを好きで、私のお腹の中には藤の子どもがいる。でも藤は私のことを、私と同じ意味での好きではいてくれない。  お互いの両親の勧めもあり、藤も乗り気だったため、私が産休に入ると同時に引っ越せるようにと家を買った。街中によく見掛けた建売住宅。あぁ、あそこにまた新しい家が建ったのだな。そんなふうにしか見ていなかった家が目の前に現れた時、私は戸惑うばかりだった。駐車場は2台以上で、庭があって、2階に子ども部屋があって。藤には将来の家族のビジョンがきちんとあった。私はただ、藤の希望に頷いていく。何も浮かばなかったから。それもあるけれど、聞いてみたかったのだ。藤が、私とこのお腹の中の子どもと一緒にどんな暮らしをしたい思っているのかを。藤の描く未来の中で、藤も私も子どもも幸せに暮らしているのなら、その通りの未来が来て欲しい。そう思った。
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