私を好きじゃなくても

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 しおりが仕事に出掛けるのを見送ると、すっかり元気になった花乃が外に出たいと言い出した。 「昨日お熱あったから今日はゆっくりしていようよ。」 「花乃もう治ったもん。お熱ないもん。元気だもん。」 最近やたら‘もん’を語尾につける。この年齢特有なのか保育園で覚えてきたのか。可愛いけれど、語尾に‘もん’がつくのはだいたい強い自己主張をする時だ。イヤイヤ期は終わったけれど、成長した花乃はちょっとやそっとのことではこちらの思うように流されてくれない。  そんな時、キッチンカウンターに置いてあるスマートフォンの着信音が聞こえてきた。 「ママ、お電話!」 一目散にカウンターに向かい、椅子によじ登って私のスマートフォンを手に取る。 「ばあば?蒼ちゃん?」 目を輝かせてそう尋ねる花乃。受け取ったスマートフォンの画面を見ると‘母’と表示されていた。 「ばあばだよ。」 そう答えて通話ボタンを押した。 『もしもし、千佳?お父さんが畑できゅうりとってきたのよ。花乃ちゃんと取りにいらっしゃいな。』 目に入れても痛くないと言わんばかりに、母は花乃を溺愛していて何かと理由をつけて花乃に会いたがる。もちろんそれはありがたいことだけれど、母がうちにやってくることはない。 「ばあばんち行くの?」 花乃が嬉しそうに見上げてくる。 『あら、花乃ちゃんそこにいるの?』 母も明るい声を出す。 「あー、昨日花乃熱出ちゃってさ。今日は家にいようかと思って。」 双方の期待に挟まれてなんとも言いづらい空気。 「えー!花乃もう元気だもん!」 『熱出たの?大丈夫なの?』 同時に聞こえる2つの甲高い声。ひとまず花乃の頭を撫でて、人差し指を口元にあて‘しー’と合図する。 「もう夜には下がってたんだけど、一応ね。」 『あら、そうなの。まぁたまには千佳も一緒にゆっくりしときなさい。野菜はまた今度ね。ちょっと花乃ちゃんに代わって。』 そう言われて私はスマートフォンのスピーカーをONにして花乃に近付けた。 「もしもし、ばあば。花乃だよ。」 『花乃ちゃん、こんにちは。お熱出て大変だったのね。』 「もうね、花乃元気だよ。しーちゃんとね、一緒におりこうさんにしてたから。」 一瞬、本当に一瞬だけれど、母は言葉を詰まらせる。 『そう、おりこうさんに出来て偉いわね。またばあばのお家にも遊びに来てね。』 「うん、絶対行くね!」 ご機嫌に花乃はそう言って電話を切った。花乃には分からない、母にとってのNGワード。私は、母と分かり合うことを放棄した。かと言って、駄目だと分かっている言葉を自ら口にすることも出来ない。ふわふわと、何も解決されないまま流される現状にどっぷりと浸かってしまっている。 母は、しおりのことが嫌いだ。  昼食を終えて、洗濯物を取り込むために庭に出た。ダンゴムシを捕まえたいと、花乃も慌てて玄関から持ってきた靴を履いてリビングから庭に出る。 「ママー、お家の中にダンゴムシ連れてってもいーい?」 さっそく捕まえたダンゴムシを手のひらで転がしながら花乃は言う。 「お家の中はやめとこうか。」 苦笑しながら答えると、意外と素直に 「はーい。」 と花乃は返事をする。私も藤もあまり虫は好きではなかった。虫とりなんかも連れて行ったことはないはずなのに、花乃は保育園でも男の子達と一緒になって虫を捕まえて遊んでいるらしい。ダンゴムシは私もギリギリ触れるけれど、バッタやカマキリは遠慮したい。 「ママ見て、バッタ!」 バッタを捕獲したらしい花乃が、それを両手で包むようにして近付いてきた。洗濯物をカゴに放り込みながら思わず身構える。奴らはいつも思いもせぬ方向に飛んでくる。私の前にやって来た花乃がそっと手を広げた瞬間、バッタがこっちを目がけて飛び跳ねた。私は咄嗟に持っていた洗濯物で顔を隠し短い悲鳴をあげてしまう。 「あー、ママにくっついた!」 「え、嘘。お願い、早くとって花乃!」 3歳の娘に懇願する情けない母。でもそんなことも言っていられない。苦手なものは苦手なのだ。 「えー、花乃届かない。」 「届かないって、やだ、そんな上にいるの?!」 「ママのおっぱいの上。」 「嘘、やだ!」 悲鳴に似た声を上げながらバタバタしていると、後ろからそっと両肩を掴まれた。 「何してるんだよ。」 驚いて振り返る。 「あー、蒼ちゃん!」 花乃が嬉しそうに指さした先には、昨夜会ったばかりの蒼太が立っていた。 「相変わらず虫苦手なんだな。」 笑いながら蒼太は私の両肩から手を離し、右肩近くにとまっていたバッタをそっと掴む。 「花乃が捕まえたバッタなの。」 得意げに言う。 「すごいな、花乃は。今度俺と一緒に虫とり行くか?」 「行く!!花乃ね、おっきなカマキリ捕まえてみたい!」 盛り上がる2人を見つめるだけで、私は何も言えない。蒼太に触れられた両肩が熱を帯びている気がして動けない。 「千佳、これ。」 花乃と話を終えた蒼太が急に振り返り、手に持っていたビニール袋を差し出す。 「さっき千佳のおばさんがうちに野菜届けてくれてさ。俺が実家にいるの知ったら、千佳の所にも届けて欲しいって。」 私の実家と藤井の実家はすぐ近所。藤がいなくなったあとももちろん交流はある。蒼太は藤井の実家で暮らしているわけではない。隣県の大学に行ったけれど、就職で地元に戻ってきた蒼太はここから車で10分程の場所で一人暮らしをしている。 「もう、お母さんたら。ごめんね、蒼太。」 「天気も良いし、ちょうどいい散歩になったよ。」 そう言われて初めて蒼太が車で来ていないことに気付く。 「昨日、あれから実家に泊まったの?」 「いや、昨夜は自分の家に帰ったよ。手伝って欲しいことがあるから来てくれって朝から呼び出されたんだ。」 「手伝って欲しいこと?」 何気なしにそう尋ねただけだったのに、蒼太はその表情を陰らせる。 「二階をさ、少し片付けたいって。」 「···二階って」 「兄ちゃんの部屋だけじゃないよ。俺の部屋も、もう使わないからさ。」 「···そっか。まぁ、そうだよね。」 藤がいなくなって二年半。藤以外の時間は進んでいく。仕方のないこと。分かってはいるけれど、私にはまだ出来ない。 「蒼ちゃん、見てー!ダンゴムシのお家作った!」 庭の隅で花乃が大きな声を出す。蒼太は一瞬悲しげに笑って、花乃の元へ走っていく。その後ろ姿さえも、藤とよく似ていた。  洗濯物を取り込み終えても、花乃は家の中に入ろうとしない。 「俺が見ておくから千佳は戻って良いよ。」 庭の隅に花乃と並んで座ったまま蒼太は言う。その言葉に甘えて私はカゴを持って先に家へ戻る。窓を網戸にして、レースのカーテンも全開にした。ソファの前で洗濯物を畳んでいると、花乃の楽しそうな声が聞こえる。その声に混ざって時々聞こえる低い声。まるで、親子のようだった。藤がもし生きていたら、あそこにいたのは藤だっただろう。苦手な虫も、きっと花乃のために克服しただろう。いつまでだって花乃の遊びに付き合って、花乃は藤のことが大好きで、私はそれを幸せそうに眺める。きっと、そんな未来のはずだった。あの楽しげな花乃の後ろ姿を見ながら、こんな悲しい気持ちになるはずじゃなかった。  
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