私を好きじゃなくても

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「マーマー、喉乾いちゃった。」 そう言って家の中に戻って来たのは三十分後。額にじんわり汗をかいた花乃が機嫌よく部屋に入ってくる。 「じゃあおやつにしようか。お手々洗っておいで。」 「はーい。」 そう返事をしてバタバタと洗面所へ走っていく。 「千佳、ごめん。俺も水かお茶欲しい。」 窓辺に腰を下ろした蒼太が手で顔を扇ぎながら言う。花乃と同じように額が汗ばんでいる。 「ごめん、上がって。暑かったのに、長時間ごめんね。」 慌てて言うと蒼太は笑う。 「花乃と遊ぶの楽しくてさ、暑いことに気付かなかった。」 くしゃっと笑うその顔は、藤とよく似ている。 「···バカだなぁ。」 何故か涙が出そうになったのを堪えて、笑ってそう言った。  花乃と蒼太が手を洗って戻ってくる。 「ごめん、本当に水かお茶しかない。あー、あと牛乳。」 「花乃、牛乳飲みたーい!」 「じゃあ俺はお茶で。」 プラスチックコップに牛乳を、二つのグラスに麦茶を入れてテーブルに並べる。 「ママ、昨日蒼ちゃんがくれたゼリーも食べたい。」 牛乳を一口飲んだ花乃が思い出したように声を上げる。昨夜蒼太が帰った後、花乃はゼリーを冷蔵庫に入れるようしおりに頼んでいた。今日食べるつもりでいたのだろう。  冷蔵庫から出したフルーツ入りのゼリーをニコニコしながら食べる花乃。その隣で蒼太が、優しく笑って花乃を眺める。 「蒼ちゃんのゼリーおいしい。」 「そっか、また持ってくるよ。」 「わーい、やったぁ。」 「もう、花乃ったら。」 蒼太のことが大好きな花乃。花乃は自分の父親のことを知らない。六ヶ月間、こんなふうに花乃を可愛がっていた藤のことを花乃は何も知らない。飾ってある藤の写真を見て、花乃は‘蒼ちゃん’と言う。しおりにこっそり、自分のパパは蒼太なのかと聞いていたこともある。私に直接聞かなかったのは、花乃なりになにか思うところがあったのかもしれない。  おやつを終えて、蒼太にソファで絵本を読んで貰っていた花乃がゆっくり体を揺らしながらやがて目を閉じた。蒼太の左半身にもたれかかるようにして眠る花乃。 「寝ちゃったな。」 蒼太は花乃の頭を撫でる。 「ごめんね。野菜届けに来ただけなのにこんな長居させて。」 蒼太から読みかけの絵本を受け取る。 「いや、会いに来る口実が出来て良かったよ。おばさんに感謝だな。」 そう言って笑う。私は何も言えない。 「おばさんもさ、意地張らずに遊びに来たら良いのにな。」 私は俯いていた顔を上げた。 「本当にね。でも、しおりと顔を合わせた時にいらないこと言いそうでちょっと怖い。」 「···あぁ、まぁそれは俺も思うけど。」 蒼太は苦笑する。 「高校の時は、お母さんもしおりのこと気に入ってたと思うんだけどな。」 「あの時と今とじゃ状況が違うから、ね。」 言葉を濁す蒼太。 「俺も、思ったよ。なんでしおりさんなんだろうって。」    藤のアカウントでしおりと連絡を取り合った後、同窓会で再会した。昔の面影を残しながらも少しやつれたようなしおりと再会した瞬間、私達は泣きながら抱き合った。泣くつもりなんてなかった。笑って再会して、しおりと昔の話をして、楽しく過ごすつもりだった。  後日、しおりをうちに招いた。同窓会の日は実家に預けていた花乃は、その日初めてしおりと会ったのに、ものの数分で懐いた。それこそ今日の蒼太のように、一緒に遊び、絵本を読んでもらい、一緒にご飯を食べ、「帰らないで」と泣き喚いた。私は、同窓会の日から考えていたことがあった。 ―――ねぇ、しおり。うちで一緒に暮らさない? 自分でも、突拍子のないことを言っているとは分かっていた。様々なことに追い詰められていたしおり。今また離れてはいけない、そう思った。でもそれだけじゃない。私自身にもしおりが必要だった。花乃と二人の生活は、二人でいるのにどこか孤独で、折れてしまいそうになる時もある。誰でも良いわけじゃない。しおりが、良い。 ―――しおりが嫌になったらいつでも出て行って良いから。少しの間でも良い。お願い、ここにいて欲しい。 この時、しおりは仕事を辞めたばかりだった。心身ともにボロボロになるまで働いた仕事からようやく離れて自由になったしおりを、今度は私が縛り付ける。 ―――え、うちに戻って来ないつもりなの、千佳?! 藤がいなくなってすぐ、母はそう言った。きっと誰もが、私が家を手放して実家に戻るものだと思っていた。 ―――私は、この家を出るつもりはない。 藤がいた家。藤の痕跡が残る家。これからたくさんの思い出を作っていくはずだった家。簡単に、捨てられるものじゃない。簡単に、離れられるはずがない。 ―――しおりちゃんと一緒に暮らす?!他人と一緒に暮らすくらいなら実家に戻って来なさい! しおりが同居を受け入れてくれたことを報告した時、母は怒鳴るようにそう言った。実家に戻るのが嫌だったわけじゃない。この家を離れたくなかった。でも、この家で父や母と一緒に暮らすのは違うと思った。花乃と二人で頑張っていきたい、実家での同居を断った時に私はそう言った。それなのに、赤の他人であるしおりを受け入れた私を、母が理解出来ないのは当然だったと思う。しかもその時しおりは無職。心象はこの上なく悪かったことだろう。 ―――もう決めたことなの。 私は折れなかった。母がどれだけ説得してきても、父がやんわり否定してきても、藤の両親が困ったように無理やり笑っていても。  幸い母も、しおりに直接文句を言うことはなかった。その代わり、うちに来ることもなくなった。諦めたように私とは普通に接してくれるようになったし、花乃のことも可愛がってくれた。でも、しおりの話はしない。花乃の口からしおりの話題が出ても、母は極力その話題を広げずしおりの話を遠ざける。しおりの存在を受け入れられなかった母は、しおりの存在をまるでないもののように扱う。 「兄ちゃんの代わりでも良いから、しおりさんじゃなくて俺を選んで欲しかった。」 そう、蒼太は言う。逸らされない真っ直ぐな視線は、時々怖いとすら思う。 「蒼太は、藤じゃないよ。」 「知ってる。でも千佳といられるなら何でも良い。」 「···何言って」 「千佳だって、兄ちゃんだと思った方が楽だろう?あの時だって···」 「言わないで!!」 言いかけた蒼太の言葉を遮る。私の声に、花乃が小さく唸り声をあげる。蒼太はそっと花乃をソファ寝かせ、自分だけ床に降りた。私の正面に座った蒼太は、私から目を逸らさない。心臓がバクバクと鳴り響く。蒼太に聞こえてしまいそうな程大きな音で。あの日の映像が、声が、フラッシュバックする。 「···ごめん、言わないで。私が全部悪かったの。ごめん、本当にごめん。」 逃げるように俯いた。 「謝って欲しいわけじゃない。俺は、それでも良いと思ってる。」 「···良いわけない。」 「良いんだよ。俺は、千佳といたい。」 蒼太は、藤じゃない。 ついさっき、自分の口から出た言葉が恥ずかしくて堪らない。私が一番それを分かっていないのに。どれ程蒼太を苦しめているのか、知りもしないのに。 「好きだよ、千佳。」 頬に、手が触れた。大きな手に包まれた頬。優しい力で、そっと顔を上げられる。抵抗しようと思えば簡単に出来た。この先の決定権は私にあると言わんばかりに、蒼太の手には少しも強引さがなかった。 「好きだよ、千佳。」 目が合って、もう一度そう言われる。目が逸らせない。頬に触れる大きな手が小さく震えた気がした。私は、ずるい。優しい蒼太を突き放すことも、選ぶこともしない。都合のいい時だけ受け入れて、蒼太を縛り付けて離さない。  ずるい。ずるい。ずるい。分かっている。でもまた、私は目を閉じる。 「···千佳。」 目を閉じれば、そこにいるのが誰なのか分からない。 「千佳、好きだよ。」 夢を見るのだ。起きていても、目を閉じれば私は夢の中にいる。 ···藤 唇に、唇が重なる。何度目のキスだろう。現実の世界で、夢の中で、私は藤と何回キスをした? 「千佳」 頬にあった手が、後頭部へと移動する。触れるだけだったキスが深くなる。 ―――千佳、好きだよ あの日も蒼太はそう言って、私を抱きしめた。藤のいない現実の世界が辛すぎて、私は目を閉じた。その腕の中は温かかった。こんなふうに藤に抱きしめられたことはないけれど、目を閉じれば藤がそこにいる気がした。心のどこかで、これは蒼太なのだと警告音が鳴っているのに、私は耳を閉ざした。 ―――千佳 あの日も、そう。触れるだけだった唇がどんどん深く、舌を絡ませるようなキスに変わって、私は必死にその大きな体にしがみついた。触れられたのは、花乃を身籠った日以来だった。あの日よりも優しい手が、あの日よりも優しいキスが、とても心地よかった。 ―――好きだよ、千佳 藤が、好き。ずっと好き。昔も、今も、きっとこれからも。再び触れてくれたことが嬉しくて堪らない。私は、夢の中で藤に抱かれる。まだ恥ずかしいし、久しぶり過ぎて痛みもあった。でも幸せだった。愛しかった。 ―――ふ、じ 名前を読んだ瞬間、藤の動きが止まった。私は目を開けた。開けてしまった。 ―――良いよ。そう、呼んでも良いから。 目の前にいたのは、泣きそうに顔を歪めた蒼太だった。何も言えなかった。再び目を閉じることは無理だった。もう、夢の中には戻れない。 ―――好きだよ、千佳。 藤じゃない。藤はそんなこと言わない。こんなふうに私に触れない。目の前にいるのは紛れもなく蒼太だった。温かな体温、優しい手、甘い言葉。私が、藤から貰いたかったすべてを蒼太はくれる。藤じゃない。藤は、もういない。 ―――ごめん、蒼太。ごめん、ごめん、ごめん。 泣きながら、何度も謝った。蒼太は何も答えなかった。 ―――ごめん、千佳。 やがて耳元で蒼太が小さな声でそう言った。その瞬間、お腹の奥に僅かな温かさを感じた。 ―――ごめん、蒼太。 謝ることしか出来ない。蒼太はそれ以上何も言わずに帰っていった。あの日の藤とよく似た後ろ姿で。 「千佳」 深くなるキス。あの日と同じ過ちを繰返しそうになっているのは分かっていた。でも、目を閉じれば夢の中。藤が、そこにいるような気がしてしまう。花乃と庭で遊ぶあの後ろ姿も、花乃と並んで絵本を読む姿も、藤だったらどんなに良かっただろう。目を閉じれば思うのだ。ねぇ、さっき花乃と一緒にいたのは藤だったんじゃないの?本当は、藤はずっとここにいる。いなくなってしまったことの方が夢だったんじゃないの?私に好きだと言ってくれるこの人は、藤なんじゃないの?と。 「···うぇーん」 花乃の泣き声が聞こえて、ハッと我に返る。目を開けると、目の前には蒼太の顔。慌てて蒼太から離れて、口元を手で拭う。 「花乃、起きちゃった?」 ソファに横になったまま寝ぼけたように泣く花乃。たぶん、見られてはいない。もう、蒼太の方を見ることは出来なかった。 「···あの時、千佳が妊娠すれば良いって思った。」 背後で、蒼太がポツリと言う。 「最低だと自分でも思うけど、わざと避妊しなかった。」 私は、何も言えない。 「兄ちゃんの時みたいに妊娠したら、千佳はきっと嫌でも俺と一緒にいてくれるだろ?」 体を撫でていると、花乃が再び眠りに落ちていく。 「千佳、結婚して欲しい。」 後ろから、右腕を掴まれる。怖くて、振り向くことが出来ない。 「兄ちゃんとは違う。俺は千佳を愛しているし、軽い気持ちで触れているわけじゃない。」 掴まれた場所が熱を帯びていく。 「ずっとそばにいる。千佳に寂しい思いなんかさせない。絶対に、いなくなったりしない。兄ちゃんみたいに、千佳を一人になんかさせない。」 そう、藤と蒼太は違う。全然違う。藤は私を愛してなんかいなかったし、触れたのは一夜の過ちだった。一緒にいてもどこか孤独だった。そしていなくなった。藤と蒼太は違う。 「···ごめん、今日はもう帰って。」 絞り出すようにそう言うのがやっとだった。 「千佳、」 腕を掴む力が強くなる。 「ごめん、帰って。」 その力が、少しだけ緩む。 「お願い、蒼太。」 ゆっくりと離れていく手。振り向くことは出来ない。蒼太は何も言わずに立ち上がる。そして、バタンと遠くで扉が閉まる音がした。
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