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「みなさん、おはようございます。長年続いていました、平泉健康ウォーキングも今回が最後となりました」
美知子は夫とともにアナウンスを聞いていた。平泉埋蔵文化財センター横の芝生は、ウォーキングイベントの参加者でひしめいていた。たいていはディパックに帽子、足元は歩きやすいウォーキングシューズや運動靴だ。しかしサンダル履きの人も中にはいる。年齢はバラバラだが、全体的に高めだ。
七キロくらい歩くのに、大丈夫なのかしらと美知子は首を傾げた。白髪が混ざる同年代の人たちをざっと見て多少の不安を感じる。
「そういえば、今日はラジオ局のアナウンサーさんじゃないのね」
「主催を降りたらしいから」
隣に立つ美知子の夫が小声で応えた。
放送ブースのテントを背にして、開会のあいさつをしているのは平泉町の観光課の偉い人らしい。ポケットの多いブルーグレーの作業服に、黒いキャップを目深にかぶっている小太りの男性がマイクの前に立っている。
「あいにくのお天気ですが、きっとゴールの中尊寺金色堂に着くまでには晴れるでしょう。それでは、町長から皆さんへのメッセージがございます。正面のモニターをご覧ください」
男性の背後には大型のモニターがある。『平泉健康ウォーキング』と浮かび上がっていた文字が消えて、白っぽい服を着た平泉町長が表れた。
『おはようございます』
低く落ち着いた声がひびいた。声は聞こえる。しかし、画面は妙に明るく町長の顔は、はっきりとは見えなかった。わかるのは、唇が動くようすくらいだ。美知子は思わず目をすがめた。
『このたびは最後の平泉健康ウォーキングにご参加いただきありがとうございます。平泉の歴史を感じながら、それぞれのペースでお楽しみください。わたくしは、ゴールの金色堂前でお待ちしています』
町長の唇の両端がくっとあがった。不意に画面全体が黄金に輝いているように見えた。
「……おいっ、何してるんだ」
夫の声に我に返った美知子は、なぜか合掌しているのに気づいた。
「な、なんでだろう。なんだか、すごくありがたいような気がして」
美知子は照れ隠しに笑って頭をかいたが、見れば同じく手を合わせている人たちが、ちらほらと見受けられた。
「それでは、いまからスタートします。二列になって歩きましょう。無理に早く歩くことはありません。ウォーキングは競争ではありませんからね」
埋蔵文化センターから出ると、右手におれて坂を下る。じき町営の浴場と、大きなホテルが目にはいる。どちらの施設もすでに営業をやめたようだ。窓のあちらこちらが割れている。美知子はサファリハットを手で押さえてホテルをみあげた。ホテルの名前だった【武】の文字だけが残っている。
「残念。帰りにお風呂に入りたかったわ」
毎回、参加者には割引の入浴券がつくのだ。そう言えば今回は配布物がなかった。以前なら、保険の勧誘のパンフや、ポケットティッシュやらが入った小さなビニール袋が配布されたものだ。いろいろと経費をかけずに行われているらしい。作業着の上にビブスをつけた誘導員もきっと町職員かボランティアだろう。
「もうホテルは廃業したのね」
「人口が減ったら観光客も減ったんだろう。今日だって参加しているのは、俺たちみたいな中高年ばかりだ」
夫の応えに美知子もうなずく。
「前に参加したときには、子連れの人たちも何組かいたと思うけど」
と、そこまで話して美知子は、前っていつのことだったかしらと記憶をたどろうとしたが、うまく思い出せなかった。考えながら道を横切り、廃業したホテルの脇を通ると目の前に菖蒲が群生しているのが見えた。
「まあ」
美知子は小さく感嘆の声をあげた。
濃い紫の花が見事に咲き誇り、陰鬱な曇天を払拭するようだ。
菖蒲の群生地に突き当たるとさらに左に折れて、毛越寺のわきをゆく。石で仕切られた隙間から大泉が池に浮かぶ船が見えた。
「あの船、春の藤原まつりで義経一行が乗るやつだな」
船の舳先には、竜の首が彫刻されていて全体が金に塗られている。
「豪華よね。でも当時はもっと華やかだったかも知れない」
美知子のたちの会話を聞いていたのだろう、前を歩く男性も池のほうを見ている。
そう言えば、春の藤原まつりを家族で見に来たことがあった。桜が満開で、とても天気が良かった。娘の和葉がまだ小学生で……そうだ、初めて平泉健康ウォーキングに参加したときは、和葉は高校生だった。それから毎年、来ている。和葉が高校を卒業して県外へ進学してからは、夫と二人で。だから、去年も来た。……来たはずだ。
「はい、今度は左に曲がりますよ」
先導する係員の声に美知子は顔を上げた。毛越寺の寺門に背を向けて今度は駅に向かって進む。
まだ少ししか歩いていないのに、妙に喉が渇く。美知子は自動販売機がないかあちこちをキョロキョロと見渡した。しかし、歩きながら行き当たる自販機は電源が入っていないか、全部売り切れかのどちらかだった。
「……道の駅で買えるか」
美知子の独り言に、少し先を行く誘導員が振り返った。
「今回は道の駅へは寄りませんよ」
「えっ、どうして?」
思わず、といったようすで夫がたずねた。
「交通量の減少で、廃止になったんですよ」
美知子は車道を見た。たしかに車はほとんど走っていない。道路の割れ目から草が伸びている。
うちはまだ二人とも運転するけど、みんな免許証を返納しちゃったのかしら。若い子が減って新しく運転免許を取る子も減ったから……そういえば、和葉も免許は取ったけれど車はほとんど運転していない。
「えー、道の駅のソフトクリーム。楽しみにしていたんだけどな」
夫の声に美知子は小さく吹き出した。
「あなた、子どもみたい」
観自在王院跡の芝生の上で、小さな子ども連れでボール遊びをしている家族に、誘導員が話しかけている。母親が荷物を手早くまとめ、父親が幼い子ども二人を抱き上げると、一家はウォーキングの列に加わった。
「事前登録しなくても、参加できるのね」
「うーん、今回が最後だからかもしれないね。特別なにも配られないから、配布物が足りないなんてこもとないだろうし」
美知子はウオーキングの列が、ずっと長く続いているのを確かめた。
駅前から左に曲がり、商店街を進む。
商店街といっても、ほとんどの店のシャッターが閉まっている。
「和菓子屋さん、閉店したのね。ああ、ケーキ屋さんも。ここのシュークリーム、大好きだったのに」
和菓子屋の大きなガラス戸の前には、白いエプロンをつけたおばあさんが一人、椅子に腰かけて美知子たちウォーキングの列を見ていた。酒屋だったショーウインドーには、日に焼けて色あせたポスターの女性アイドルが、ビールジョッキ片手にほほえんでいる。
日曜日だというのに、人気もなく静かな商店街を抜けて線路を渡る。
「義経堂堂に寄りますよ」
先頭を行く、作業着の男性が小さな旗を高く揚げる。
「あそこの階段、きついのよね。あがれるかしら」
「義経堂の階段でひーひー言ってたら、月見坂なんてのぼれないだろう。がんばれ」
通りの家の軒下に燕が巣を作っている。目を凝らすと、巣の中に雛がいるのが分かる。
「見てみて。雛が揃ってこっち見てるわ、かわいいわね」
「巣が何個もあるから、ここの家は住みやすい良い場所なんだな」
親の燕が軒を掠めて飛んでいる。燕を目線で追いかける美知子の額に雨粒があたった。
「やだ、雨が降ってきた」
美知子はヤッケのフードをハットのうえからかぶった。前を行く人たちも空を見上げては、各々雨対策をこうじる。そのうち、列はT字路を右に入る。
道を曲がると目の前に小高い丘が現れた。丘の上に続く木で組まれた急な階段を人々は登っていく。
「階段が苦手な方は、こちらを進んでください」
先導する職員が階段横の坂道を案内しているが、美知子は握りこぶしを作ると果敢にも階段に足をかけて、一段一段登って行く。階段は木立の中にあるので、雨にあたらなくてすむ。若いみどりの香りを吸いながら、筋肉が張り始めた足をだましだましのぼりきった。
登り切ったところには義経堂のための小さな料金所があり、お守りやお香が売っている。参加者の中にも、参拝する人がちらほらといる。
美知子は荒くなった息を整えて夫の隣に並んだ。ここで小休止するのが恒例だ。
「さっきの毛越寺で見た船だけど」
「ん?」
「あれは確かに藤原まつりの時に義経と北の方が秀衡にもてなされて、大泉が池で遊んだ風景を再現って言ってるけど、その時には義経には追討の令が出された後なのよね」
「言われれば、そうなるな」
頼朝の追っ手から逃れるために【東下り】してきたのだ。
義経は、この義経堂のあったあたりで自決したと伝わる。
雨が本降りになってきたのか、頭上の木々の葉に雨粒が当たる音が大きくなってきた。アスファルトを水が走り、緑のにおいがいっそう濃くなってきた。
「平清盛が天下を取ってから、壇ノ浦で平家が滅亡するまで、たった二十年くらいしかないのよ。びっくりするくらい短いの。人一人成人するだけの時間なんて子育てしてみればあっという間だってわかる」
どんなことも長くは続かないのかも知れない。頼朝が開いた鎌倉幕府もまた短命だったのだ。永遠なんて、無きに等しいのだろう。
「だったら、早く戦争も終わればいいのにな」
夫は雨粒の滴る梢の先を見あげていった。海の向こうで始まった争いは、なかなか終わる気配がないまま、数年続いている。毎日のニュースで戦局について少しはふれるが、大きく取り上げることはめっきりと無くなった。
「明るいニュースは聞かなくなったわね」
「さっきみたいに、【燕が巣を作ったので見守っています】ってのも流れるじゃないか」
美知子は顔をあげた。確かに、悪いニュースばかりではない。娘の和葉もじき帰省する予定だ。
「さあ、そろそろ出発しますよ」
小旗が高くあげられた。休んでいた参加者が動き始める。美知子が振りかえって見ると、、料金所でなにやら誘導員が声をかけているようだ。すると、料金所の扉をあけて、年配の男性が出てきた。どうやら一緒に来るらしい。
「ほんと、今回は自由参加なのね」
一行は小雨の中を再び二列になって進む。踏切を越えて、中尊寺を目指す。そのうちに弁慶の墓が見えてきた。お土産物屋のノボリもはためいているのが見える。ここまでくればもうすぐだ。
その前に、月見坂が立ちはだかるが。杉木立の続く急な坂道を登るのは、見た目よりも大変なことだ。美知子は毎回、月見坂で息が上がる。
「ゆっくりでいいですよ、雨も止んできました。足元に気をつけてくださいね」
早くして、なんて言われてもゆっくりしか行けない美知子だ。一歩一歩、自分の体重を感じながら足を進める。ふと気づけは、すぐ隣に小さな子供を連れた若い母親がいた。途中参加だろうか。パジャマとまでは言えないが、そうとうラフな格好だ。乱れた長い髪を後ろで一つに結んでいる。一人は胸に抱き、もう一人の二歳くらいの男児の手を引く。
「重いでしょう。良かったら、うちのお父さんが赤ちゃんを抱っこするわ」
思わず美知子は声をかけてしまったが、母親は美知子の声は聞こえていないようだった。
「心配で、この子たちの将来が心配で。何もかも悪くなっていくのに、この子たちが大きくなった時に、どんな世の中になるのか」
生気のない顔で、母親は何度も同じことをつぶやく。
そうだ、わたしも心配だった、と美知子はにわかに思い出した。
「お父さん、こんど和葉(かずは)が帰省したら、一緒に暮らそうって言いましょう。いくら仕事があるって言っても、戦地のそば……」
と、突然ポケットに入れていたスマホがブルブルと震えると、耳障りな音を立てた。
それは美知子のものばかりではなかった。月見坂を登る参加者のスマホが一斉に鳴り出したのだ。
「な、なに?」
美知子はスマホを取りだして画面を見た。どうしたことか、文字化けした文字列は何も教えてはくれなかった。不快な音は幾重にもかさなり、鳴り響き今や耳を聾するばかりだ。
かっと、上空に強烈な光が炸裂した。美知子は両目を手で押さえてうずくまった。激しく地面が揺れて、美知子の体は飛ばされた……。
どれほど時間が過ぎただろう。五分だろうか、一時間だろうか。美知子が目を開けると、それは月見坂を登り切った先のところだった。いつものお土産物屋さんが店を開いている。無人の店先には、定番のお守りやキャラクターのご当地限定のグッズなどが並んでいる。
『みんなさん、まもなくゴール地点です』
これは出発の時にマイクを握っていた、町のお偉いさんだろうか、それとも町長だろうか。拡声器を使っているらしい。由緒あるお寺の敷地でこんなに大きな音をさせていいのだろうかと、美知子は首をかしげた。見ると、夫はすでに先を行き、幼い子供を連れた母親も顔をあげて、男の子の手を取った。
行かなければ。雨はいつの間にか止み、あたたかな陽が降り注いでいた。なんてまぶしい。
行く手の空に何かが見えた。舳先に竜を付けた、黄金の船だ。
「お父さん、あれに乗らなきゃ。ほら、和葉が先に乗っている」
美知子は夫の横に駆けつけて、夫と手をつないだ。行かなければ、行かなければ。我先にと走る人の波はいつしか大きなうねりとなっていった。あの親子も走っている。ぶつかる肩や踏まれる足は、いつの間にか融けあい、すべてが光となって船へと昇っていく。
大きく、ため息をつくものがいた。美知子のものだったのか、乗船した皆のものだったのか。
それは安堵のため息のようだった。
「……終わりましたな」
灰色の作業服を着た小太りの男は、黒いキャップを脱いでほっとしたような表情を浮かべた。
「すべての魂が回収できたようです。いやあ、ここの地は信仰があまりはっきりとしていないから、外と比べて回収に手間取りましたが、あなた様のおかげで成功です」
男は深く一礼した。その先にあるのは、実体ではなく、淡々とした光の塊だった。
「弥勒菩薩さま。この地に残る魂を集めるためには、高次元のあなた様の手を煩わせるしかございませんでした」
「よいのだ。わたしも、わたしの為すべきことをようやくし終えた」
男の目から見ても弥勒菩薩の姿ははっきりとはとらえられなかった。古の仏像にあるように、髪を結い上げ、男でも女でもない体で、ただ静かに微笑んでいるのだろうか。
浄土信仰のある平泉という土地の力も借りて、長きわたり開発の障壁となっていた魂たちをあるべき場所へ納められたから上々だろう。
「いきなり核爆弾が落ちてきて、自分自身が死んだという意識を持たないものばかりが、いつまでも日常生活を続けていて困っていました。せっかく手ごろな惑星を買えたと思ったら、安さには安いなりの理由があったわけです」
核に核で対抗し、地上は瞬く間に死滅していった。中には、ここのように人々の概念ばかりが残った地があった。しかし、もう邪魔するものは何もないだろう。
「これでよかったのでしょう。わたしの役目が衆生をただ見送るだけだったという悲しみはありますが」
人々を救えず、ただ見送るだけという役目を担った弥勒の微笑みは、高次元の人々に関心のない男にすらも、思わず手を合わせさせるほどの力があった。弥勒の微笑みは、人類へのはなむけとなっただろう。
そうして人類は永遠の眠りについた。
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