閉じられない傘

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

閉じられない傘

「旦那さんの命は今夜がヤマかと思います。手は尽くしました。後は祈ることしかできません」  白衣を着た医者はカルテを閉じると、かるく妻に頭をさげて看護師ともに病室をでていきました。  ひとり残された妻は力のない痩せた夫の手を握りながら、ベッドの横の椅子に座って頭をたれています。ベッドの側には生命を維持するための機械がおかれ、そこからさまざまなチューブが夫の身体まで伸びていました。機械の画面には脈打つリズムが示され、ピッ、ピッという短く高い音が鳴りつづけています。その音をかき消すように窓の外は雨が降っています。夜中なのですでに街の明かりは消えていました。病室の窓の明かりだけが雨粒を鉛色に照らしてしました。  妻は心から夫を愛していました。結婚して十年、子供には恵まれませんでしたが幸せでした。半年前に夫は急な病に倒れ入院しました。夫はたいしたことがないからと言っていましたが、日増しに病状は悪化していくばかりでした。医者は現代の医学では治すことができないと言い、対処療法をおこなうだけでした。一週間前、ついに夫の意識はなくなりこん睡状態に陥りました。後は死を待つだけです。夫のために何かをしてあげたくても妻には何もすることができませんでした。ただできることといえば、夫の側に寄り添っていてあげることでした。  どれくらい時間がたったのでしょうか。夫の手を握ったままうとうととしていると、妻の近くからグウーという音が聞こえてきました。それと同時に背筋に悪寒がはしり、妻は恐る恐る頭をもたげました。 「よく降りますな。こんなに雨が降ったら川が氾濫しないか心配ですな」  いつの間にか妻の前には黒衣を羽織った男が立っていました。医者が着る白衣ではありません。デザインは同じでしたが服の色は真っ黒だったのです。 「お医者さまですか」  妻は立ち上がるといぶかしげに尋ねました。 「その逆のような者でしょうか。美味しそうな魂の匂いがしてきましたので、ついふらっと来てしまいました」  黒衣の男は鼻をひくひくさせながら答えました。  濡れた古いビニール傘を手に持っていましたので外からきたのでしょう。肩も足元も濡れて、袖からは雨水がしたたり落ちていました。  ついにお迎えがきてしまったのか、妻は胸が引き裂かれるほど悲しくなりました。 「連れていってしまうのですね」 「いえ、連れていくというよりも食べたいのです。その美味しそうな魂を……」  黒衣の男は、閉じた傘を天井に向けてひろげると、ゴクリと咽を鳴らしました。傘からは雨粒が床に落ちて妻のスカートを濡らしました。 「待ってください。私はまだ夫を失いたくないのです」 「ならばこの傘をさし続けてください。なに、簡単なことです。この傘をさし続けているかぎり、あなたの夫は死ぬことがありません。ええ、保証します。ただし、あなたがこの傘を閉じたとき旦那さんは亡くなるので、その香ばしい匂いのする魂をいただいても宜しいでしょうか。それとけっして傘を体から離してはなりません。体から離れると自動的に傘は閉じるようになっていますから」  黒衣の男は舌なめずりをしながら開いた傘を妻の前に突き出しました。受け取るか、受け取らないのか、妻次第というわけです。  妻は迷いませんでした。すぐに傘を受け取りました。握った手はきつく握りすぎたせいかふるえていました。 「これでもう夫が亡くなる心配はいらないのですね」 「そうですとも。傘をさし続けているかぎり死にません」  黒衣の男は含み笑いを浮かべると、いじわるな目つきで妻をみました。きっと驚いて傘を持ってしまったことを後悔すると思ったのでしょう。しかし妻は動じませんでした。むしろ嬉しそうな笑みさえ浮かべたのでした。 「ありがとうございます」 「晴れていても、部屋の中でも傘をさし続けなければならないのですよ。いいのですか」 「ええ、わかっています。もちろん傘を閉じたりしませんし、体から離すこともありません。夫には長生きして欲しいですし、回復するかもしれませんから」 「まあ、わかっているのなら……。魂は死の間際にいる時間が長ければ長いほど熟成されておいしくなりますから。人間の熟した魂は、それはもう美味でしてな。あなたが傘を閉じる頃、きっと食べ頃になっているでしょう」  黒衣の男はよだれを拭き取りながら言いましたが、妻は気にする様子もなく開かれた傘を嬉しそうに見上げていました。  黒衣の男は霧が風に吹き飛ばされるように消えた後、妻は傘をさし続けていました。ベッドの上の夫を見ていると寝息が穏やかになったようでした。こころなしか表情も和らいできたように思えます。  それから妻の生活は大きく変わりました。一日中、傘をさしたまま持ち歩かなければならないことも不便ではありましたが、それよりも持ち歩くことで社会生活に支障が出ることが最も大変でした。覚悟していたことですが、それは想像以上に辛いことでした。  事務員の仕事をしていた妻は会社をクビになりました。事務所の中で傘をさしたまま仕事をしないように、と指示されたことに従わなかったからです。傘をさしたままできる仕事はありませんでした。妻は会社勤めを諦めて、フリーランスとして自宅で得意の工業翻訳の仕事をはじめました。収入は減りましたが、自宅でなら部屋の中で傘をさしていても誰からも咎められることがないからです。  仕事の事だけではありません。外に出ることは気の重いことでした。近所に買い物に行くだけでも周りの冷たい視線に耐えなければなりませんでした。外にいるとき雨が降っていれば目立たないのですが、晴れていれば透明なビニール傘なので日傘の代わりになることもありませんから、道行く人からは奇異な目で見られました。スーパーなどの店に入れば店員から傘を閉じるように言われ、牛乳パックひとつ買うだけでも容易ではありませんでした。  夫の見舞いに病院に行ったときも同様に病院の看護師に傘をささないように注意されました。注意されたとしても傘を閉じるわけにはいきません。妻はやむを得ず心を病んでいるふりをしました。それに献身的な夫への愛情も加わってかなんとか見逃してもらえました。  妻が傘をさすようになって半年が過ぎました。夫は相変わらず寝たきりで目を覚ますこともなく体も動かしませんでした。端から見れば生きているのか死んでいるのかわからないような状態のままでした。  半年も傘をさし続けていれば傘もぼろぼろになってしまします。ましてもともと古いビニール傘でしたから頑丈ではありません。すでに傘として使い物にならないほどでした。ビニールはところどころ破けて、骨の部分も錆びだらけになっていました。  ある日、夫の見舞いに来ていると、黒衣の男がいつの間にかベッドの横に立っていました。突然現われたというより、霧が固まるように姿を現わしたのです。黒衣の中の腹がグウグウと鳴っています。 「いい加減、傘を閉じませんか。さし続けているのは辛いでしょう。いい塩梅に魂も熟したみたいですし」 「いやです。このさき何十年でもさし続けます。あなたに大切な夫の魂を食べさせるつもりなんてありません」  妻は傘を高く上げてけっして閉じようとはしませんでした。 「まさかこんなにも長く傘をさし続けるなんて思ってもいませんでしたよ」 「夫の命を守るためなら、人に理解されなくても気味悪がられたって止めることなんてありえません」 「それほどまでご主人を愛されていたなんて誤算です。口では愛の為だ、などと立派なことを言っても本当に実践できる人はいないと思っていました。すぐに根をあげて傘を閉じると思っていたのですが……」 「どうか諦めてください」 「早くご主人の魂を食べたいんですよ。熟して、こんなにも香ばしい匂いがしているんですよ。我慢なんてもうできません」  黒衣の男はよだれを床に垂らしながら言うと、妻の持っている傘を力ずくで取り上げようとしました。 「なにをするんですか」 「傘を返してもらうんですよ。いつまでたっても傘を閉じないじゃないですか。もうご主人は充分生きたでしょう。これだけ長生きすればあなたも満足でしょう。本当ならとっくに死んでいたはずなんですからね。次は僕の望みを叶えてもらいますよ」 「いやです。ぜったい返しません」  妻は身をのけぞらせて必死に抵抗しました。頭の上で傘が揺れています。  黒衣の男は背伸びして傘の柄をつかみましたが、妻は奪われないように必死で傘の柄の上を握っていました。押し引きが続き、傘は揺さぶられ続けました。  ついに傘の芯棒が真ん中からポキッと折れてしまいました。錆びだらけの傘でしたから耐えられなかったのでしょう。折れた傘は寝ている夫の胸の上に落ちました。 「なんてことをしてくれたんだ。傘が折れてしまったじゃないか。もうどうなっても知らないぞ」  予想もつかなかったのでしょう。黒衣の男は悲鳴ともつかないような声をあげました。 「騒がしいな。眠れないじゃないか」  ふいに夫が目を覚ましました。ベッドから背伸びをしながら起き上がると、眠そうに欠伸をしています。 「意識がもどったのね」  妻は泣きながら夫に抱きつきました。夫は何が起きたのか理解していないようで、不思議そうに、しかし優しい笑みを浮かべながら妻の髪を撫でました。 「腹がへったよ」  夫は腹をグウーッと鳴らせながら言いました。これまでは点滴だけだったので無理はありません。 「私もお腹が空いちゃった」  妻は甘えた声で答えました。  黒衣の男は折れた傘を手に取ると、深くため息をつきました。 「まさか傘が折れると病気が治るなんて思いもしなかった。これから同じような人を見つけたら、新品で折れない頑丈な傘を渡すことにしよう。ああ、腹がへった。食べそこなってしまった」  そう言いながら黒衣の男は霧が風に飛ばされるように消えていきました。床にはバケツ一杯分のよだれが溜まっていました。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!