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わたし:水元公園の近くの葛西神社に行って来ました。
なぎさ:これ意図的に横が見えるように撮ってるね。林銑十郎って誰?
わたし:書いてあるように陸軍大将で、朝鮮軍司令官(中将)だった時に独断で満州に攻め込んだ。すごく短い期間だけど総理大臣もやってた。軍人としても政治家としても先見の明がない人って感じだね。
なぎさ:じゃあ、東京裁判で裁かれたとか?
わたし:幸いと言うべきか、1943年に病死してる。
なぎさ:で、葛西神社とどういう関係があったの?
わたし:わかんない。この辺りに住んでたのか、単に頼まれたのか、はたまた。社務所で訊いてみる?
なぎさ:やめなって。そういうの訊いていいのは子どもだけ。字は立派なような。……郷社って?
わたし:ああ、詳しく説明するのは面倒だからざっくり言うと、戦前の国による権威付け・位置付けがゆるく、税金をもらわない神社ってところかな。葛西神社は土着的な信仰に徳川家康への崇敬が加わったものみたいね。
なぎさ:立派な本殿だし、広くて摂社も多いけど、ほとんど参拝客もいなかったね。さびれてるの?
わたし:4月の例大祭、11月の酉の市はにぎやかみたいだよ。毎月第一土曜日は骨董市も開かれてるとか。
それとちょっとびっくりすることがWikiに書いてある。そのまま引用するね。
葛西神社は祭囃子発祥の地と言われている。祭囃子すなわち葛西囃子は城東地域(東京東部)に古くから伝わる郷土芸能の一つ。起源について明確に記載された文献は残されていないが通説としては享保年間、葛西神社の神官、能勢環(のせたまき)が敬神の和歌に合わせ、音律を工夫して和歌囃子として村の若者に教え、御神霊をお慰めしたのがその起源とされている。
宝暦3年(1753年)頃より関東代官伊奈半左衛門(増補 葛飾史では伊奈半十郎)忠順が天下泰平・五穀豊穣を祈願すると共に一家和合並びに青少年の善導を目的としてこれを奨励した。結果、毎年各地で葛西囃子代表者の選出会が催される事となり、選出された者を代官自ら神田明神の将軍家御上覧祭りに推薦した事により大流行した。
(中略)
余談だが「葛西囃子」の名称自体は戦後に付けられたものである。これは大東亜戦争の後、地元有志の手により保存会が結成されてからの呼称でありそれ以前は単に「おはやし」と称されていた。
なぎさ:へええ、神田明神じゃないんだぁ。将軍上覧を目指して祭囃子の選抜大会があったっていいねー。
わたし:映画にして欲しいよね。「響け! ユーフォニアム」と「ええじゃないか」を突き合わせたみたいな。
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