紺碧の彼女

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 甘えるような可愛らしい鳴き声が、私を呼んだ。  青い空が薄っすらとオレンジ色に染まりはじめた頃、草花の生い茂る緑の絨毯を踏みしめながら、一匹の黒猫が近付いてきた。 「あら、また来たの?」  ビー玉みたいにまん丸なサファイアブルーの瞳を私に向けて、艶めく美しい黒い毛に覆われた彼女は、返事をするように「にゃお」と短く鳴いた。 「あなたはいつも、どこから来るの? こんなに綺麗な毛並みをしているんだから、誰かに大事にされているのよね?」  雄大な自然に囲まれたこの田舎町で、猫を見かけることは珍しいことじゃない。町のほとんどの人が顔見知りだし、飼い猫であれば、どこの家の子かなんてすぐに分かるはずなのに。  一週間くらい前から突然姿を見せるようになった彼女は、決まって夕暮れ時に現れる。  自由の象徴のようにしなやかな長いしっぽを揺らして、大きなブナの木の下で読書をしている私の膝上に乗ってくる。  時々本を覗き込んでは、まるで一緒になって読んでいるかのように、彼女の真剣な瞳が文字を追う。  本当に、不思議な子。 「なんだか今日は、いつもよりご機嫌ね」  日が沈み始めたことで文字が見えづらくなった本を閉じると、相も変わらず私の膝の上でリラックスしている彼女の背中を優しく撫でた。気持ち良さそうに目を閉じてごろごろと喉を鳴らす姿は、あまりにも愛おしくて、このまま家に連れて帰ってしまいたくなるほどだ。 「ねぇ、あなたの名前は? 私はグレースというの。あなたのことを、もっと知りたいわ」  そう言って彼女の顔を覗き込むと、青く澄んだ瞳が私を見つめる。今にも人の言葉を話し出しそうな強い眼差しが、つい、私をおしゃべりにさせる。 「あなたは本当に、ただの猫なの? じつはケット・シーだって言われても、私は平気よ」  訊ねたところで、もちろん返事なんてするはずもないのに。  この国の伝承に出てくる妖精猫を思い描いて、私は心を弾ませた。  彼女が二本の足で立ち上がって、私の名前を呼ぶ。  そんな、空想の世界。 「私ったら、本の読みすぎかもしれない。猫に話しかけているところを学校の子に見られたら、笑われちゃうね」  年齢を重ねても夢みがちな自分になんとなく気恥ずかしくなって、私は曖昧に笑いながら彼女をお腹に乗せるようにして、体を草むらの上に横たえた。伸びた柔らかい草花が、私の体を包んでくれる。 「そろそろ帰らなくちゃ……」  そう呟いて、そっと目を閉じた。  夕暮れ時の風が、夜の匂いを運んで私の前髪を揺らした。  気持ちのいい、清らかな空気。  田舎特有の、緑に溢れた樹々の香りが、小さい頃から好きだった。  ──にゃお。  鈴の音のような鳴き声が、心地良く私の耳に届いた。  お腹の上に乗っていた愛しい重みが消え、温もりが薄れていく。  ふと、顔に影。  私の頬を、彼女のしっぽが擽った。 「ふふ、なぁに。擽ったいよ」  しっぽを避けるように頬を手の甲で擦って瞼をあげた瞬間、私は思わず息を呑んだ。  煌めくサファイアブルーの瞳が、私を見つめていた。  言葉が出ないとは、こういうことだろうか。  私を見つめる、大きな瞳。  だと思っていた頬を擽るしっぽは、艶やかな銀色の長い髪。  いつからいたの?  どこからきたの?  突然私の目の前に現れて、私の体を跨いで顔を覗き込んでいる、同じ年頃の……15歳くらいの女の子。 「あなた──……」  だれ?  そう言葉にする前に、女の子の人差し指がそっと私の唇に触れた。 「しー……静かに」  鳥のさえずりのように綺麗な声が、どきんと、私の心臓を跳ねさせた。    優しく笑う女の子の髪と同じ銀色の長い睫毛が、深い青の瞳をより一層美しく見せて、私はもう、彼女から目が離せなかった。  お人形みたい。  そばかすだらけの私の顔とは違う、シミひとつない、透き通るような白い肌。見惚れるほどに可愛らしい彼女の顔が近付いて、ふっと私の首筋に鼻先が当たった。  どきん、どきん。  心臓の鼓動が、彼女にまで聞こえてしまう。  彼女の銀色の髪から香る花のように甘い匂いが私の鼻腔を擽って、くらくらと眩暈がしそうだ。  その存在も、首筋に当たる熱も、あまりに急な出来事なのに、私は動くこともせずに彼女を受け入れている。不思議な気分だった。  すうっと、彼女が私の匂いを嗅ぐ気配がしたかと思うと、首筋にちくりとした痛みが走った。  その時なぜだか急に、あの黒猫のことが気になった。  あの子は、どこにいるんだろう。 「あっ……」  勝手に零れ出た驚きの声が、自分のものだと気付いて目を見開く。  なに……? なにかが変……。  彼女の柔らかい唇が、生々しく私の肌に触れている。こくり、こくりと、彼女の喉が動いている気配を感じて、どっと胸の鼓動が速まった。  血……! 私の血を飲んでる……!  びっくりして、怖くなって、彼女を私の上から跳ねのけたいのに、体が動かない。  どくん、どくんと、次第に心臓が激しく脈打って、全身の血を吸い上げられる恐怖に、私は息を荒げた。  怖いっ……!  そう叫びたかった。  ぎゅっと閉じた瞼の裏から、涙が溢れ出す。目尻をつたって耳にまで雫が落ちると、私の首筋に触れていた彼女の唇が、ゆっくりと離れた。 「……ごちそうさま」  宥めるような優しい声で囁いて、濡れた私のこめかみに、彼女はそっとキスをする。 「大丈夫よ、少しだから。すぐ、動けるようになるわ」  その落ち着いた声を聞いて、恐る恐る目を開ける。歪んだ視界の先で、彼女が体を起こす姿が目に入った。 「──シーヴァ様、お迎えにあがりました」  膝をついて私を跨いだままの彼女が、急に聞こえた男性の低い声に反応して、後ろを振り返った。  銀色の長い髪が揺れて、ため息混じりに肩を竦める。 「うるさいのが来ちゃったから、もう行かなくちゃ」  彼女は悪戯に笑って立ち上がると、今だに動けずにいる私を見下ろした。  彼女のサファイアブルーの瞳が鮮やかに赤く染まって見えるのは、夕陽のせいだろうか。 「あなたの膝の上は、とても居心地がよかったわ。楽しい時間をありがとう、グレース」  驚く私に笑顔を見せて、彼女は背を向けた。  待って……! お願い……!  声は出なかった。  力なく伸ばした右手が、彼女に届くことはなくて。  彼女と私の短い時間は、この瞬間に終わりを告げた。  暫くして体の自由が戻った時には、太陽はほとんど沈んでいて、夜の濃い青が空に広がっていた。 「シーヴァ……」  彼女がそう呼ばれていたことを思い出し、そっと声に出してみる。 『二本の足で立ち上がって、私の名前を呼ぶ』  そんな、空想の世界。  あった。  あるんだ、本当に。  彼女の唇が触れた首筋を、私は指先で撫でてみる。  痛みはもうない。  それなのに、肌に残る、彼女の痕跡。  私を見つめる、宝石のように煌めくあのサファイアブルーの瞳を思い浮かべて、とくん、と小さく胸が高鳴った。  夢じゃない。  草むらに置かれた本を拾い上げると、宝物のように胸に抱き締める。  彼女が何者であったかなんて、私には分からない。  それでも。  青い目をした彼女は、もう私の前に現れることはなかったけれど。  あの美しい瞳の色を、生涯忘れることはないだろう。  日が沈んだ直後の、見上げた深く濃い空の色と重なって、何度だって思い出すのだ。  物語りのような、不思議な出逢いを。
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