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二
焚火の周りを、ぐるりと取り囲むように地面に突き刺さった無数の串。毛を毟って目玉を抜いた鳥が、一羽丸ごと貫かれている。脂が滴って、濃密な肉の香りが辺りに漂った。
丸太ほどもありそうな巨大な腕が、暗闇の中からにゅっと出でて、串を一本引っ掴んだ。炎に照らされてかその腕は燃えるように赤く、指の先には鋭い爪が伸びていた。
身を屈めたからだろう。炎が照らす中に、腕の主の顔が現れた。人と獅子とを足して二で割ったような形相、蓬髪の左右から伸びる牛角、口中に生え揃う牙と、爛々輝く金色眼。腰に獣皮や蓑を巻ただけの半裸、筋骨逞しく、熊相手でも一捻りで殺してしまいそうだ。
鬼である。
鬼は串に刺さった鳥に食らいつき、一口ですっかり呑み込んでしまった。そうして、脂に光る口を拭いながら、牙をがちがち鳴らして、一言呟く。
――美味い。
地の底から響いてくるかのよう。面相同様、人と獣との中間の声である。
その呟きを皮切りに、暗中の四方八方から、焚火に向かって手が伸びた。赤、青、緑、黒……様々に色は違えど、どれも一様に毛深く、丸太のように太く、鋭い爪を生やしている。
風が吹いて、満月にかかる雲を吹き流した。
同時に燃えている薪が崩れて、炎が照らす範囲が広がる。現れた顔はどれも、無数の牙と金色眼を持った獅子面――。角や目玉の数に違いはあれども、むくつけき鬼の顔に変わりはない。十、二十――もっとかも知れぬ。小さな焚火の周りを、八尺九尺揃いの巨体の群れがどしんと胡坐を掻き、串に刺さった鳥を、次から次へと飲み込んでいるのである。そして、ひとりひとりの傍らに大盃が置かれていて、三里先にいても鼻を突かれそうなほどの香を放つ酒が湛えられている。誰かが酒を干す度、十尺はありそうな大徳利が放られ、とくとく注がれるや否や、ぐいと一息――徳利の舞は、中々終わる様子を見せない。
初めは一心不乱に喰っていただけだったのが、腹がくちくなり出すと、あちらこちらから笑いさざめく声や談笑が聞こえてきた。そのうちに、ひとりがふざけて銅鑼声で歌いだすと、全員が声を揃えて、囃子を合わせる。そうしてまた肉を喰らい、酒を飲むのである。
鬼宴。草木も眠る丑三つの頃、誰も立ち寄らぬ深山の深奥で繰り広げられる彼岸の興。
その只中でひとり、小さくなって畏まっている、明らかな外れ物がいた。
木ノ葉天狗の白狼である。
焚火を中央に据えて、四辺のうち恐らくは艮と思しき方角に置かれた丸太、白狼はそこに腰かけさせられており、左右には二人の鬼が控えていた。左にいるのは、真っ黒で二つ目、一本角の鬼。腰に皮を巻いただけの半裸が多い中で、この鬼は汚れてはいるが野袴を履き、蓑を背から提げている。鬼同士の会話から察するに、黒角という名があるらしい。
身の丈よりも太い丸太、腰かけると足がぶらぶらする。白狼は握りしめた拳を膝上に置き、石地蔵のように固くなって、鬼どもが酒宴に興ずる様子を見ていた。丸太には、あちこちに空洞があり、ちょうど白狼が坐しているすぐ傍にも小さな穴があって、そこには焼きたての鳥や、肉片がたくさん張り付いた鹿の骨が並べられている。そのすぐ横に笹の葉が敷かれて、瑞々しい鮎が三匹ほど。さらには、鬼のそれよりは少し小さめの――後で聞いたところでは小鬼用らしいのだが、盃が置かれ、毀れるくらい酒が湛えられてあった。
水面をじっと見ていると、鬼の声がした。
「どうした天狗殿――鬼の宴に遠慮は損だぞ。それとも――山の幸はお嫌いか」
ならば俺が海まで行ってこようか――と遠方、しかも遥か彼方の頭上からも声がする。千里先まで届く雷のような声で、鬼どもの持つ盃が激しく波打った。
白狼は慌てて丸太の上に立ち上がり、手を振って申し出を否む。そうして胡坐を掻くと、覚悟を決めたように盃を取り、一息に呷った。
途端に全身に走る、心地よい痺れ。こいつは恐れ入った。下っ端の木ノ葉天狗には、千年生きたって与えられることのない銘酒である。一口で飲み干してしまうと、盃を置いた傍から、黒角が満たしてくれる。とくとく注がれる音が耳を擽るのもまた愉快である。さてもう一口――と盃に嘴を付けると、カタリと音が鳴った。その音にハッとして、目を瞬かせる。そうして、ちびりと啜っただけで盃を丸太の上に置いた。
危うく、呑まれるところであった――。いかんいかんと首を振り、己を叱りつける。
眼前では二匹の鬼が戦いの真似事をやって遊んでいる。双方とも剣の心算で木を持っているのだが、鬼くらいな剛力になると、剣代わりに若木を丸侭使うらしい。
周りの鬼どもは、それを見てげらげら笑っている。黒角も腹を抱えて笑いながら、白狼に同意を求めるかの如く目配せする。白狼は曖昧に微笑み、焚火の火を見つめるばかりだ。
――なんでまた、こんなみょうちきりんなことになったのか。
何もかもが理解できる範疇を超えていて、これからどうなるのかも、どうすべきなのかも分からない。一つだけ明らかなことがあるとしたら――真意は全く測り難いが、現状、えらく歓待されているということは確かだ。
やや遡ってみると、こんな具合である。
ここが白峰ではないと気付いて慌て出した時、叢から鬼どもが無数に姿を現して、白狼の姿を見止めた。白狼も驚いたが、鬼どもはもっと驚いたらしく、暫く互いに睨みあったまま、微動だにしなかった。が、そのうち鬼の頭領らしき、取り分け図体がごつくて頭に角が六本、目が五つもある鬼が、傍らに控える鬼――これが黒角であった――の耳に口を寄せ、何事か囁いた。黒角は頷いてつかつかと歩み寄ると、もはやこれまで……と目を閉じて震えている白狼を抱き上げた。鍋の中にでも放り込む心算かと思いきや、優しく置かれたのは丸太の上。事態が飲み込めずに目を白黒させている白狼を尻目に、宴の席が華開いたのである。
それから随分と経つが、彼らが自分に対して害意を持っているのかいないのか分からないままである。鬼と天狗の仲……良いのか悪いのか、さっぱり見当がつかない。白狼自身も鬼に遭ったことは今までなかったし、様子から察するに向こうも同じなようだ。
腹を探ろうにも、相手のことを知らなさ過ぎる。笑っていても怒っていても同じ顔だから、表情から肚を読むこともできない。本当に、心底、途方に暮れる事態であった。
御馳走をたらふく食わせ、太らせ、酔わせてから捕まえ、喰う気なのかもしれぬ。
あるいは、宴の席に珍しい客が来たと、本当に心から、歓迎しているのかも知れぬ。
答えによっては生死が分かたれるわけだから、本意はどっちなのだろうと気が気でない。だが、どっちにしても、今すぐこの場を立ち去ることは難しそうだ。宴は始まったばかり。見渡せば、鬼の数は増えこそすれ減る様子はない。白狼が珍味であろうと珍客であろうと、酣という時まで取っておくはず。つまりはそれまでは命があるわけだが、崇徳院の許に為朝救出の報を奏上するのが、どんどん遅れることになってしまう。それはそれで不味い。
――結局、俺は、ここまでなのか。
ここまで不幸な天狗と言うのも珍しかろう。情けなくて、思わず笑いが嘴の端から漏れる。
気付けば、周囲が水を打ったように静まり返っていた。焚火を囲んでいる鬼という鬼が、皆揃って白狼の顔を凝視している。決闘の真似事をしていた鬼や、下手糞な舞を披露していた鬼でさえ動きをぴたりと止め、眼を広げてまじまじと見てくる。百近くあろう金色眼の全てに、自分が映っている――あちこちから刺さってくる視線の眩さ。魔道に堕ちる前が亀だったなら、首を窄められたであろうに。
鬼どもは微動だにせず、白狼を見つめるばかりである。こちらから働きかけない限りは、この膠着が終わる気配はない。白狼が笑った様子を見て、何か言いやるかと期待に胸を膨らませているのだ。どうしたものかと額の汗を拭いつつ、無理に笑顔を作って嘴を開いた。
「新参者のやつがれを……こうして暖かく迎え入れてくださり、まこと感謝至極に御座る」
自分の声が、気味悪いくらい夜闇に谺する。それくらいの静寂であった。
鬼たちは何ら応えず、白狼の顔色を窺うばかりである。これは不味いことになったか――と、背中に冷たい汗を再び感じ始める白狼。そこに傍らから黒角の逞しい声が響いた。
「――えらく仰々しい物言いをしおる天狗殿じゃな。あんまり妙な笑い声を漏らすものだから、さては酒が口に合わなんだか、そもそも宴がお嫌いかなど思っておったのだ」
黒角の言葉に、うんうん頷く周りの鬼。どうやら向こうもこちらのことを持て余し気味のようだ。有無を言わせず宴の席に着かせておいて、良い面の皮である。白狼は手を振り、
「何もかもが極上。夢心地とはこのこと」
こんなもので良ければ、いつでも食わすがの――と、どこからか応える声。それを聞いて、黒角を初めとする二、三の鬼が、金色眼を三日月状にひん曲げ、鼻を膨らませ、牙を剥いた。それを見てゾッとする白狼だったが、どうやらこれが、鬼たちの微笑みらしい。
笑っている今の状況なら――多少踏み込んでも機嫌を損ねることにはなるまい。意を決して膝をうち、ただ――と、言葉を続ける。
「ただ――どうにも解せぬことが多くて。何故、やつがれを――木ノ葉天狗であり、しかも今日ただいま初めてお遭いした、このやつがれを、鬼の宴に招かれたのか。その真意が飲み込めませぬ。故に、宴の興に酔い痴れたい気持ちは満々なれど、心の奥に引っかかるところがあって、いやどうにも――」
言葉尻こそたどたどしくなったが、言いたいことは言った。白狼は深々、息を吐く。
「肚が読めんと――酒に酔えんと言うかの」
体色は白、棘のような毛に全身を覆われ、顔が身体の倍ほどは大きい。満月よりも輝く巨大な金色眼が三つに、角が二本。氷柱のような牙がぞろりと生え並ぶ口。上顎は横に平たく、逆に下顎は先端に向けて絞ったように縦に長くて、上下でまるで釣り合いが撮れていない。際立って化物染みた顔をした鬼であった。まったく人語など扱えそうにない口で、驚くほど流暢に言葉を紡ぐ。その異形の風貌に恐れをなしつつも、白狼は頷いた。その鬼は、三つの眼をそれぞれ違った方にギョロつかせ、それは困ったの――と唸り声を上げる。
「儂らには、天狗殿の胸に蟠る雲を晴らしてやることは難しかろう」
「やつがれをこの宴席に加えていただいた理由――話すことは叶わぬと仰られますかな」
そこよ――と、膝を打って口を挟み込んで来たは、牛の顔を持つ鬼。そのくせ牙の生えそろった口を開き、涎を垂らしながら、やはり流暢に言葉を紡ぐ。見てくれに関係なく、ここに集う鬼どもは皆、言葉を話せるらしい。
「ぬしは理由、理由と拘るがな。ぬしをそこに置いた理由なんぞ、儂らにはない」
白狼は目を丸くして、牛頭鬼を見た。牛の顔では掴み難いが、嘘は吐いていなさそうだ。
「まあ、強いて言うならな。天狗殿がこの剣山におったからじゃ。だから、理由と言うなら、天狗殿の方にある。ぬしに出くわさなんだら、儂らとてぬしを招くことはないからの」
白狼は言葉を返せずに、ただただ鬼たちの顔を一つ一つ眺めるばかりであった。頭の中に渦巻くのは、彼らの言葉を信用すべきか否か迷う心、そして――己が今いる場所の名を聞き知ったことからの驚きと自嘲であった。
剣山――そこまで見当違いではなかった。最後の最後で判断を誤ったのだ。剣山があるのは阿波国。讃岐とは目と鼻の先である。
思わず嘴を鳴らして毒吐きたくなったが鬼たちの手前、憚られる。何せ、ふとした嘆息にさえ、機敏に聞き取る耳の持ち主が揃っているのである。また所在が判明してくると、色々不思議に思うことが筍の如くひょこひょこ首を擡げてきた。そっちを片付けるべきだ。
「剣山――ここは、剣山で御座ったか」
「何だ、知らなかったのか」
「やつがれは白峰に棲む木ノ葉天狗。夜に眼を眩まされ、道を違えてしまったらしく――」
「天狗のくせに、夜道を間違えたとな。妙なことを言いんさる天狗殿じゃ」
それもそうじゃな――と、どっと上がる笑い声。一瞬ムッとしたが、考えてみれば確かにそうだ。ややぶすっとした表情で、疲れていたので――と応えた。それから少し間を置くと、足の爪で首の後ろを掻きつつ呟く。
こやつらと話していると、調子が狂う――。
揃いも揃って飄々とした物言い。すっ呆けているのか、はぐらかしているのか、心から能天気なのか、思ったままを素直に答えているのか、表情からも声色からも、まったく読むことができない。
分からなくて当然である。鬼と天狗とでは考え方も、表現の仕様も異なろう。対峙した時の戸惑い、扱い難さは人間以上かも知れぬ。
それなら、成り行きに身を任せるしかない。どう転ぼうと、なるようにしかならない。
そう考えたら、かえって気が楽になった。最後の最後に自分が俎上に上がろうとも、目の前にこれだけの馳走を並べられて、それに一嘴も付けぬという手はなかろう。
猪肉にむしゃぶりつく。じゅうじゅうと滴る脂に酔い痴れた。良い喰いっぷりじゃと喜ぶ鬼たち。嘴で肉を引き千切り、ほとんど噛まずに嚥下してしまう。
鬼たちの食欲も尽きぬ。暫くはあちこちで肉を喰らう音だけが響く。その後、骨を噛み砕く音に交えて、どこぞの鬼が口火を切った。
「それにしても、白峰の天狗が来られるとはな。百年に一度の余興よ。この中にも、天狗の姿を初めて見たという輩が大勢おるであろ」
古老らしき、長い白髭を蓄えた背の低い鬼である。髭には枝毛どころか、本当に木の枝が何本も混じっているが、編み込みのようではない。顎から根が生えているのかも知れぬ。
方々から手が上がった。何くれと気にかけていてくれている黒角の手も上がっていた。
「それはこちらも同じ。鬼の姿は初めて見もうした。貴公ら、白峰の方に足を向けなさることは、おありなのか」
「ない。儂らはここより他に行き先を持たぬ。塒の山を離れて地の果て、海の向こうまで遠出するような興など、持っておらぬからの」
ナニ海まで行ってきたのか――と驚く声。何故知っているのかと白狼が問うよりも先に、老鬼は鼻をひくつかせて見せた。身体に染みついた潮の匂いでそうと察したのだろう。
「何せ、天狗殿には翼があるからの。千里の果てとて、行くのもたやすかろ。だが――儂らにだって、千里を一瞬間で奔る技はある。空歩と言って、地面より少し上を滑る術だ。極めれば海山を問わず、どこにだって行けるのだ。天狗殿の翼にも劣るまい」
老鬼は鼻高々だが、誰も感心はしない。知らんなあ――と首を傾げるばかりである。白狼の傍らにいる蒼鬼が、ふんと鼻を鳴らして、
「どんな術も――忘れ去れれば意味なかろう」
この一言で老鬼は片付いてしまった。そうじゃそうじゃと周りから同意の苦笑い。場を取りなすように口を開くは、さっきの牛頭に対して馬の顔をした鬼。白狼の翼を眺めつつ、
「その翼があれば、どこにだって行けそうじゃ。いつも、彼方此方を飛び回っているのか」
「いや、今宵はたまたま――。いつもは大天狗様の遣いに、山谷を巡るくらいのもので」
「だが、この剣山に来たことはないのだろ。白峰からそう離れてはおらぬが」
天狗が訪れる山は決まっております――と白狼は答えた。なるようになれと腹を決めてから流暢に喋れている気がする。喋ると喉が渇き、甘露を欲する。自分でも気づかぬうちに杯を重ね、だいぶできあがっているようだ。
「天狗がいない山に赴くことは御座らぬ。鞍馬山に愛宕山、比叡山に日光山、羽黒山……この国に大天狗が住まう山は大凡四十八.して、剣山は、その中にはないのです」
なんだ、剣山に天狗はおらんのか――と、頭上から声がした。複数の鬼が夜空を見上げて、何で残念そうなんじゃ――と返す。
「天狗と言ってもひとりではないのだろう。そこな天狗殿が百も二百も大挙してみろ。我ら鬼の居場所がなくなる。天狗は白峰、我らは剣山――釣り合いが取れて、結構なことよ」
「貴公らは――ここにおられる鬼殿は皆、この剣山に棲んでおられるのか」
全員ではない――と答えを返すのは、さっきまでずっと黙って骨をしゃぶってた白鬼。
「宴席に加わろうと、遠方より来るものも大勢おる。たとえば――そうさな、さっきから時折、頭上で声がしとるが、あれはな、三里隔てた山を跨ぎ、四国の海で湯浴みするのが好きなのじゃ。それをこともあろうに、人間に見咎められてな。呼ばれた名前が、讃岐の手洗い鬼じゃ。――ナニ、聞いたことはない、か。向こうはどうやら、知っておるらしいぞ」
知っとるぞ――と、頭上高くから声がする。讃岐の手洗い鬼とやらだろうが、その巨体が月光を隠してしまい、姿は見えない。白狼の眼は宙を泳ぎ、虚空をなぞるばかりだった。
「直に言葉を交わすのは、これが初めてだがの。その天狗殿が白峰から飛び立ってゆくのを、何度か目にした。儂の鼻先を掠めて飛ぶものだから、擽ったくてかなわなんだ」
「しかし、貴公の姿を見たことは一度も――」
「分からんはずだ。何せ、あまりにでかいのでな。どっかり座られると、山にしか見えぬ。今だってそう。麓の人間どもの夜目が効けば度肝を抜かすことだろうよ。剣山にもう一つ、山が寄り添っているようなものだからの」
そんな大変なことになっているのか、と白狼は目を見開いた。少し離れたところに座っている、体中に目の付いた鬼が、全ての目をぎょろりとヒン剥き、夜空を見上げて呼ばう。
「おうい、讃岐の――。あんまり酔い過ぎるな。ぬしに潰れられると迷惑だ。酔い潰れて高鼾して、えらくやらかしたことを忘れるな」
笑いで夜が揺れ、白狼は思わず身を縮こめた。そうそう三百年前のあれなと、手洗い鬼。
「陸奥の霧島山で呑んだ時だったかの。忘れようたって無理じゃ。生涯で最大の失態よ」
まったくじゃ――と、方々から同意の声。黒角も酒を片手に、あれは危うかった――と、首を横に振っている。白狼に好奇の眼差しを向けられると、黒角は苦笑を滲ませながら、
「ご存知かどうか……。三百年ほど前に陸奥の辺りで、どえらい大震動があった。震えはやがて潮を湧き上がらせて、津波を呼び、どこもかしこも水浸しになって人が何人も死んだ。こいつの仕業じゃ。もちろん、わざとではないぞ。こやつの酒癖がの――。飲むと所構わず、ぶっ倒れて眠ってしまう。その鼾が大地と海を震わせて、地揺れと津波を呼んだというわけじゃ。まったく、迷惑な話じゃの」
溜息を吐く黒角を前に白狼は、はあ――と間抜けた相槌を打つより他なかった。あまりに規模が大き過ぎて、笑うに笑えないのだ。鼾をかくだけで、人を千人殺す――そんな力が、自分にあったら……という思いすら、微塵も出てこなかった。
「あの頃は、陸奥の霧島山で呑んでいたな。塒を構えていたのは確か、大多鬼丸だったか」
「そうよ――良い奴だったが、悪戯が過ぎてな。人間に討たれよった。奴を偲ぶために、久方ぶりに集まって――讃岐がやらかした。以降、あそこは使っておらん」
「あの頃も楽しかった。陸奥の山奥に広がる、大多鬼丸の隠れ里――あの美しさに比する光景は、ついぞ見たことがない。大多鬼丸の死と共に、あの里も潰えたのが残念至極じゃ」
「鬼の宴は――色々な山で開かれておるのですな。やつがれはちっとも知らなんだが」
嘴を突っ込む白狼。体中から草が生え、蓑笠を負った鬼が、酒を啜りながら牙を剥く。
「これでも寂しくなった方よ。昔は方々に宴の場があった。鬼ももっとたくさんいて、あちこちの山に酒を飲みに行った。朝に東北の山で雪を愛で、夕に西国の山に潮の唸りを聴きに行く――といった具合じゃ。だが、人間どもが山を切り開くようになって、馬鹿騒ぎできる山が減ってしまった。剣山を下りたことのない鬼が増えたのも、そのためじゃ。昔は鬼も随分、あちこち飛び回っていた。爺様が言った、空歩なんていう時代遅れの技も、そのために作られた技じゃった。な、爺様よ」
むすっとした顔で酒をちびりちびり飲んでいた老鬼。鼻を鳴らし、そうじゃと頷く。
「今じゃあ、宴どころか鬼が棲める山を探すだけでも精一杯じゃ。この世に嫌気がさして、時期が来るまで西海の向こう、遥か彼方の常世の国に棲み処を探す鬼も増えた」
それから夜空を見上げて、誰に聞かせるでもなくひとりごちる。
「儂もこの山に千年を過ごしたが、後どれくらい居続けることができるか――儂自身にも、まったく分からん。昔ほどの気力も闘志もない。儂だけでなく、鬼の全てがそうじゃ。鬼に限らず、儂らのようなモノらが幅を利かせる時代は、もう終わったのかも知れんでな」
しん――と、静まり返る宴席。年寄りが思い出話に花を咲かせ過ぎると、ロクなことにはならない――と言うのは、鬼でも天狗でも人間でも同じなようだ。誰も彼もが目を伏せて、暫くは焚火の爆ぜる音だけが、夜を掻き乱していた。白狼も決まり悪い顔で、酒の水面に嘴を浸し、ちびりちびりと啜るばかりだ。
どれくらい時間が経ったか分からない。不意に、おい天狗殿――と口火を切る鬼がいた。
「物は相談だがな。奇縁あって鬼の宴に来られたのだ。酒代の代わりに――というわけではないが、1つ興を見せてはくれんか。実を言うと儂ら、新しい肴に飢えておってな」
肴と言われて、いよいよ俎上に上るさだめかと一瞬どきりとする白狼。相手の顔を見ると、双眸は至って穏やか、牙も爪も引っ込んでいる。胸の早鐘を抑え、おずおずと答えた。
「はあ――やつがれにできることであれば。して、興とは何をすれば宜しいのか」
「鬼の興と言えば一つしかない。――力比べじゃ。どうじゃ、一つ儂らと一拳交えんか」
そんなことなら容易い。ようやっと酒に酔っても良い気がして、白狼は熱い息を吐いた。
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